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「失楽園」
- <序....SIDE A>
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- 最初にその異変に気付いたのは、公共団地に住む主婦だった。
ゴミ出しの為に外に出た際ふと見たその視界の先で、いつもなら認められる筈の駒ケ岳の影が消えていることに気付いた後、更に彼女は肌寒さを感じて眉ねを寄せた。
セカンドインパクト以来、季節を失ったはずの日本で、こんな寒さを感じることなどまず有り得ない筈だったからだ。
「冗談じゃないよ。いくら朝だからって、こんな気味の悪い……」
朝の冷気ばかりではない、それは確かに主婦が遠い昔に感じたことのあった“冬”の持つ寒さだったのだ。
「ツトム! 早く顔洗っちゃいなさい。御飯もう出来るから!」
まだパジャマのままの子供にそう叫ぶと、母親は慌ただしくキッチンに戻った。
料理を詰めた弁当をランドセルに入れてからもう一度見ると、いつもは聞き分けの良い筈の息子が、何故か今日に限ってじっとベランダの外を眺めている。
窓の前から一向に動く気配のない息子の姿を、今から朝食の支度もあるのに……と苛立たしく思いながら、母親はキッチンを離れて息子に近づいた。
「ツトム! 何してるの。学校遅れるでしょう!」
「ママ、変なんだよ」
「何」
「さっきまでいつものお山とかが見えてたのに、ぼーってして、消えちゃった」
「……何馬鹿なこと言ってるの! そんなことある筈ないでしょ!」
「でもママ、本当なんだよ」
子供の言葉に、と言うよりほぼ反射的に振り返った母親は、窓に映ったその景色を見て絶句した。
かすかな霧の向こうに、今まで見たこともない景色が広がっていた。
かたん、と物音を聞いてリツコは目を開けた。
咄嗟にデスクの上のデジタル時計を見ると、時刻は午前六時二十七分。
いつの間に眠っていたのか、最後に吸っていた筈のタバコは吸い殻の山の上で冷たくなっている。
ラリーテーブルの上で電源が入ったまま放置されていたパソコンに向き直ると、リツコは小さく頭を振った。
「オーバーワーク気味かしら。昔はこの位の仕事量、全然平気だったんだけど」
デスクの上で奇妙な姿勢のままうたた寝してしまった為か、ひどく首が痛い。
軽く叩いて伸びをすると、今度はそっとデスクに手をついて立ち上がる。
「留守録はなし……眠っている間に緊急事態発生、なんてこともなさそうね」
白いコードレスをちらりと見て呟く。
使徒の攻撃がいつ、どんな形で行われるのか、ネルフ側からでは推測出来ない。
従って研究室に入っているリツコも、いつ警報が鳴るか、いつ緊急の連絡が入るかと心から落ち着く暇もないのだ。
勿論、今のこの状況を選んだのは自分の方で、何よりこの生活を失うなんて想像だに出来ない自分がそこにいるのだけれど。
新しいタバコを手に取ろうとして、再び山となった灰皿を見る。やがて諦めたように溜息をついた律子は、タバコを箱の中に戻した。
肺が真っ黒になっているとか、健康に害があるとか。
そんなことは自他ともに認めるヘビースモーカーだから、別に今更タバコ量を我慢しようと考えた訳ではない。
……ないのに、それでも何となくタバコをデスクの上に放り投げて、リツコは横にあったコーヒーメーカーをぐっと掴んだ。
残り少ないどす黒い液体をカップに注いで一気に呑み干すと、また、溜め息。
カフェイン中毒の方も、相当なものかも知れない。
(何だろう)
空になったカップの縁の口紅の跡をなぞると、リツコは頬杖をつく。
苛々する。目が覚めた時から、ずっと。
訳の分からない胸騒ぎが、リツコの中にある。
緊急事態はなかった筈だし、研究室の中にも別段異常は見られない。パソコンのデータは無事残っていたし、胸騒ぎの要因なんてかけらも伺えなかった。
なのにまるで……これから異変が見つかることが分かっているような。
そう、嫌な予感、と云うのが一番近い気がする。
(馬鹿馬鹿しい。つかれてるのね、私)
自分なりにそう解決させて、仕事の続きに向かおうとパソコンを睨んだ。
途端。
電話が、鳴った。
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