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「失楽園」

第三部...3
 昔、アスカには苦手なものがたくさんあった。
 その中でも一番嫌いだったのが動物で、自覚の要因は、父親が連れて来た小犬だった様に思う。
 母親が亡くなって以降、アスカはますます表情堅く親の手をはねのけるようになっていて、父親が犬を連れて来たのも、以前は機嫌を取る手段として有効だった人形が、アスカにとって不必要なものになってしまった為だった。
 人形が嫌いなら。
 と、見上げるほど高い場所から父親は言う。
 どんな人形も気に入らないなら、この小犬はどうだ? 可愛いだろう。
 動物は情操教育に良いから、と言う継母の言葉がその背後でいつも聞こえていた。
 ペットがいれば、あの子も少しは笑える様になるかも知れないでしょう。私が幾ら母親になろうとしてもいつまでも拒まれて、これじゃ少しも進展がないんですもの。
 正直言って……何だか疲れるのよ、あの子といると。
“私は貴方の妻だけど、あの子の母親では、ないのよ”
(だってママは死んだもの。あたしの心と一緒に、死んじゃったもの。だから)
 最初から二人目の“母親”なんて望んでいなかった。
 なのに継母の、まるで切り捨てる様な言葉がひどくアスカを動揺させた。 期待してなかったのに。
 懐かないもの。だから、仕方ないから、努力するのも疲れたから、もういっそのことやめてしまいましょう。やめて(捨てて)やめてしまいましょう。捨ててしまって。
(ママをやめないで! あたしのママをもう取り上げないで……一人にしないで!)
 しかたないわね。
 ……勿論、人を本当に捨ててしまうことなんて出来ないだろう。
 けれどもっと残酷に、他人を心から切り捨ててしまうことなら誰にでも出来るのだから……そうして継母にとってアスカはどこまで行っても他人に過ぎず、だからきっとこの人は簡単に自分を捨ててしまえるのだと、愚かな程にいつでもどんな時でも実感出来ていた。
 だって本当の母親だって切り捨てることは可能なのだ。
 病室で“人形”の自分を殺し続けた母親、アスカは心に傷をつけない為に必死になってその光景を切り捨ててきた。
 可哀相な母親……彼女が心の病気だなんてその頃のアスカには本当の意味で理解出来なかったし、それどころか自分が受けた苦痛を和らげる手段すら、幼すぎて知らなかった。
 だから目に映る世界を心まで届かせなかった。
 最初は光景を切り捨て、次に母の声を切り捨て、最後には母の存在自体を否定した。そうして何も感じないでいればそれ以上傷付くこともなく、アスカは平常心を保つことが出来たから。
 人形の親子、と病院で呼ばれていたアスカと母親はそうして時間を凍結させて、お互いを護ることしか出来なかった。
 でも他人なら、もっと遠くもっと簡単に捨ててしまって。
“殺してしまえる”。
 そう思いながら手渡された小犬をぎゅっと抱き締める。
 くうん、と鼻を鳴らして顔を擦り寄せてくる犬。
 湿った鼻が何度もアスカの頬を嗅いで腕に触れるしっぽがさわさわとくすぐったかった。
 しっぽを振っている。
 目もほとんど見えていない様子のその小さな犬は確かに可愛くて、だから余計にアスカの中で吐き気が込み上がってきたのだ。
 訳の分からない衝動。
 父親に向かって投げ付ける様に犬を渡すと、驚く“両親”の前でアスカは首を振る。
 そんなの、いらない。いらない。
 いらない。はじめから何も。誰も、いらない。
 その奇妙な感情はアスカを戸惑わせた。
 何故自分がここまで小犬に嫌悪感を抱くのかが理解出来なかった。
 小犬は確かに可愛いかったし、いつまでも抱いていたいと思う気持ちは偽物ではなかったのに。
 結局、犬は父の知り合いの元にいき、以降アスカは二度と動物を飼おうなんて思わなかったのだけれど……弊害はそれだけではない。あの頃から理解出来ない感情に向き合うと、アスカは苛立ちを覚える様になっていた。
 答えは多分胸の奥にあるのに、それを探し出すことを心が拒否している。考えたくないと無意識の内に心がガードしてしまうのだ。
 苛立ちは不快感と共にアスカを更に不機嫌にさせ、思えばエヴァのパイロットに選ばれてからはその回数が一段と増えていたのではなかったか。
 ……特に第3新東京市に引っ越してから。
「ですから私、お互い違った戦いの渦中にある者同志としても、それ程までには意見の違いはないんじゃないかと思うのよ。アスカ?」
 ぱしん、と軽やかな声がアスカの思考を強引に元の世界に戻す。
 はっとして顔を上げたアスカは眼前にある顔に一瞬考え、それから焦って小さく笑った。
「い、意見の違い? あたし達の」
 ああそう。うっかりしていた、ここはもう第3新東京市じゃない。
 サンクキングダムと言う別世界だったのだ。
 今はのんびりとしている時ではないのに。なのにどうして急にあんな昔のことを思い出していたのか良く分からない。
 そう思った途端、向かい合わせに座るドロシー・カタロニアの含みのある微笑に気付き、アスカはぐっと唇を噛む。
 ああそう。この女生徒のせいだ、きっと。
 朝食を摂る為食堂まで降りて来たアスカとレイに、突然声をかけてきた学園の生徒。
 ドロシーと名乗った彼女はアスカ達と同席しての食事を求め、断る理由もないからとそれに同意したのがまずかったらしい。
 彼女はアスカ達が第3新東京市から来たことを既に承知しているらしく、食事のトレイを手にして席に着いた途端独特の含みのある質問をぶつけてきた。
 更にそれだけではあきたりず、上品に食事を進めながらも続く演説調の言葉は、一方的に進められているのかと思えば突然アスカ達に同意や意見を求めてきたりする。
 おまけに語るその内容は深く考えるとかなり意味深なものばかりで、うかつに返事をして良いものか困惑してしまいそうになるもの、ときている。
 隣のレイは無言のまま食事を続け、それで仕方なくアスカとドロシーが二人で会話を続ける羽目になってしまったのだけれど……思って、アスカは手元のスープに視線を移す。
(ほんと、こっちの世界の人って皆こうなのかしら。あたし達と同い歳にしちゃあ、言ってることがクドいのよね)
 思わず、それまでこらえていた溜め息が一つこぼれる。
(要するにこいつ、自分は戦争賛美者なんだーって自己主張してる訳よね)
 言葉の意味を捕らえるにつれ、段々とアスカの中にわき上がる不快感。
 どうもこれが過去の記憶を呼び覚ます原因になったらしい。
「……アスカはどう思うの?」
「どうって、何が」
「貴方はあちらで別の敵を持つ立場にあるんでしょう? それも身をもって戦う立場。確固たる意思なくしては自ら戦地に立つことは出来ないもの。貴方は戦いが正しいと思うから戦場に向かう。違っている?」
「戦いが正しいとか間違ってるとか、そー言うことは分かんないけどさ、向こうが勝手に戦争ふっかけてくるから、降り掛かる火の粉を払ってるだけ」
 思わずぼろっとそんな言葉を口にしてしまった。
「降り掛かる火の粉」
「喧嘩売られて無視出来ないのよね、あたしは。それより貴方はあたし達の事情に精通してるみたいだけど、それってどこから仕入れた情報な訳? 説明もしてない筈なのにこれみよがしに物知り顔されるのって、結構ムカつくのよね」
「……情報の欠落は自分の命を左右する様な場所に、私身を置いているの。貴女方の様に変わったお客様が登場したんじゃ、調べるしかないわ」
「ただの好奇心じゃないの? それって」
「そうとも言うわね。でも好奇心のない者は向上心もないと言うこと、貴女方もこちらの世界のことを知りたいと思っている筈だもの」
 そりゃ知りたいわよ、と言おうとしてアスカは口をつぐんだ。
 どうもこれではドロシーのペースに乗せられてしまっている。
「知りたいことは、リリーナ・ピースクラフトから教えて貰えば良いから。こっちとこの学園は手を結んでお互い隠し事ナシで事態の解決をはかりましょうねって約束なの、腹の探り合いなんて真似しやしないわよ」
「私は学園サイドの人間ではないの。とりあえずこの完全平和主義と敵対するロームフェラ財団の関係者だから、その約束は私には関係ないわ」
 言われて、アスカは脳裏に昨夜眼を通したミサトからの簡単な資料を甦らせた。
 この世界の戦況と関係図。
 確かにロームフェラ財団は地球を掌握する方向に存在しており、そうなれば完全平和主義の学園とは敵対する立場にあって当然だろう。
 資料は本当に簡単な説明でしかなく、実際アスカは憶測とデータ収集でおおよその現状予想を組み立てていだか、その予想もあながち外れていない筈だ。
「この学園に来て、平和主義になったって訳じゃ、ないの?」
「リリーナ様はご自身の意見を無理に押しつけたりしないもの。それでは平和を説くことにはならないでしょう? 私が自分で納得してそう考えられるまで、あの方はきっと丁寧に平和の必要性を説いて下さる筈だわ……もっとも、それで私が本当に完全平和主義に共感するかはまた別の問題だけど」
 言外に“完全平和主義の納得は有り得ない”と匂わせている。
 アスカもリリーナ・ピースクラフトに協調した訳ではなかったけれど、それでもドロシーに対して「やな奴〜」と思う気持ちは十分に生まれる程の、それは鼻に付く態度。
 リリーナ・ピースクラフトより何より、本当はこの女こそが曲者なのかも知れない。
(……ま、あたし達も確かに“完全平和主義”ってのにはなれないだろうから、同じか)
「先程から本当に、一言も口を開いてくれないのね。レイ?」
 フォークでスクランブルエッグ(どうでも良いけど妙に器用である)を口もとに運ぶレイに、いきなりドロシーの視線が向かう。
 大体、黙り込んでいるレイには流れ上諦めて話しかけずに終わるのがパターンなのだが、どうも彼女はこう言った状況でもくじけないタイプらしい。
 鉾先が変わって、アスカも何となく、レイを見つめてしまった。
「そんなに私の話はつまらない?」
「……別に」
とか何とか、ほとんど答えにならない返答があった。
 そのまま続きを待つが、そんなものは期待するだけムダだと経験上知っているアスカがまず声を上げる。
「よーするに。貴方は私達が望んで戦場に向かってるってことを確信したかったって訳よね、ドロシー」
「いいえ。ただ私、人間には戦争が必要だと思うの。だから戦地に立つ人達は皆大好き。話を聞きたいと思うのはその為でもあるのよ」
「戦争が必要……?」
「そう。平和は人を堕落させてしまう特効薬だもの。人が何度も平和と戦争との間を行き来するのはその為だとは思わない? 長すぎる平和は全てを堕落させ、安穏とした日々に人類は怠惰を覚えて滅亡の道を辿ってしまう。だから繰り返すの。簡単に忘れてしまうから、そのどちらともに留まることが出来ない。だとしたらやっぱり人は戦うしかないのよ……そう話せば分かって貰えるかしら」
「貴方の持論? それ。それじゃ延々人類は戦争してるのが正しいって訳だ」
「……そうかも知れないわ。もっともっと戦って、戦い続けて、中途半端に道を戻るのではなくずっと……」
 最後は囁く様な調子になったドロシーの言葉に、アスカはおや、と食事の手を止める。
 ほとんど終わりに近づいた食事は会話のせいかどうも消化不良の感を否めず、ドロシーのそれまでにない真摯な瞳はそれを決定的にしたのだけれど。
「講義」
 何か尋ねようとしたその時突然ぽつんと呟きが起こって、アスカとドロシーはほとんど同時に振り返った。
 視線の先にはレイが食器をぞんざいに片付けたまま、立ち上がろうとしている。
「え?」
「始まるわ、そろそろ」
 言われて時計を見れば確かに講義時間が近づいている。
 見渡せば食堂の人影もほとんどなくなり、そう言えば先に来ていたシンジはどうしたのかと、思ってもどこにもその姿はない。
(先に行ったって訳ぇ? あンの薄情者っ)
 別に集団行動がしたい訳ではなかったものの……ドジを踏まない為にはお互いなるべく離れない様にしていた方が良い、と反省した訳でも、勿論ない。
 この辺りの発想はそもそもシンジ辺りのもので、アスカの場合はそれをはねのけて勝手に行動してしまう、と言うのがいつものパターンの筈なのである。
 その肝心のシンジが単独行動に移って、アスカの「薄情者」の台詞にはそのまま“このあたしがすぐ近くにいるってぇのに、無視して行っちゃった訳ぇ!?”と言う言葉が続く筈だった。
 ドロシーとレイに囲まれていた為か、シンジの優柔不断さが懐かしくなっていたのかも知れない、不覚にも。
「……でもまあ、初日から遅刻ってのは、マズイわよね」
 自分に言い聞かせる様にして残りの食事を呑み込むと、アスカもレイに続いて立ち上がった。
 勿論ドロシーの方も講義に遅れるつもりはないらしい。
「このお話はまた、いつでも出来るものね」
 などと言いつつ食器を片して、優雅な仕草で立ち上がったのだった。






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