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「失楽園」

第三部...10
(こう言う仕事をしていると、自分でも嫌になる位疑り深くなるわね)
 交替制の仮眠を名目にして中央作戦司令室を出ていたリツコは、ヒールの靴音を響かせて廊下を進みながら、ずれた眼鏡を戻してそう思う。
(それとも相手を信用出来ないのは、心にやましいことのある証拠かしら)
 あながち否定出来ない考えが浮かんで、誰もいない廊下で小さく笑う。手の中の書類がいやに重く感じられた。
 手の中の書類とは、諜報部が集めた“この世界”とリリーナ・ピースクラフトから預かったサンクキングダムの資料である。さすがに不眠不休では倒れてしまうし判断力も損なわれるから、ある程度の休息はするけれど、リツコは今から研究室に戻って資料の調べ直しをするつもりでいたのだった。
 遠方確認された怪しい影は未だにデータとしての形を整えず、ネルフ側としても打つ手のない状態。
 何より戦闘意思の見受けられないその様子から今のうちに休息を取る必要があると判断されて、だからこそE計画でも中心核となるリツコが、今ここにきてのフリータイムを取ることが出来たのだ。
 動きがあればすぐに連絡が入る。それまでに少しでも有益なデータが欲しいところなのだが、さしものリツコも数日の勤務に疲れがたまって、廊下をこうして歩くことも億劫な状態なのだった。
 ベッドに横になればどれだけ楽になるだろうかと誘惑にかられたけれど、やはり知的好奇心と公務の方を片付けておかないと、安心してゆっくり出来やしない。
 ようやくたどり着いた研究室の前で、リツコは軽く伸びをすると自動ドアのロックを解除する。コーヒーメーカーも冷蔵庫も一通りのものが揃った室内で、ひとまず何か飲んでからパソコンを立ちあげようと考えた。
 手早くコーヒーメーカーをセットして、主スクリーンの広がるデスクの前に腰掛けたリツコは、けれどそのまま硬直して深く吐息した。
「……うかつだったわね。まるで気配を感じないなんて」
「セキュリティが甘すぎたな」
 背後から聞こえる吐き捨てる様な声。
 ゆっくりと振り返ったリツコは、そこに自分に向けて銃を向けて立つ少年の姿を確認した。
 切れ長の目に中国の白い民族服。こちらを睨む瞳はそれだけで人を射殺せそうな程鋭く強い。
「いつ、どこからここに入ったの? このところ侵入者が増えて困るわね」
「女。お前が技術開発部に所属し、この組織の重要開発プロジェクトの責任者であることも分かっている。非戦闘員に暴力を振るうつもりはない、この組織の目的とお前の関わるプロジェクトの内容について説明してもらおう」
 低くそう言ったのは、勿論先刻ネルフに侵入していた五飛だった。
 あらゆるセキュリティを避けてハッキングの後リツコの立場を掴んだ五飛は、そのまま研究室の所在地を調べてここでリツコを待ち受けていたのだ。
 本当に見事としか言いようのない手腕である。少なくとも現時点ではネルフに侵入者があったことどころか、異変があったとの報告すらないのだから。
 彼の侵入を知っているのは、恐らくリツコだけだろう。
「貴方もサンクキングダムの関係者なの?」
「代表のリリーナ・ピースクラフトと会談を行った際の情報か。残念だが俺はサンクキングダムとは無関係だ。お前達が正しいのなら咎めはしない、だがそこに正義がなければ俺が潰す。どんな事情があろうとな」
 リツコ達がリリーナから受けたこの世界の事情は、サンクキングダムの立場とコロニーと地球の間の微妙な関係、それからロームフェラ財団などの現在の有力勢力の名。
 加えてヒイロ達のような、特殊な戦闘訓練を受けたコロニー側の戦闘員の存在だけだった。
 けれどその他の詳しい部分についてはこちらで調べ、彼らがガンダムと呼ばれる特殊なモビルスーツに搭乗することを既にリツコ達は知っている。
 ガンダムが五つあること、そしてそのパイロットも五人おり、彼らが全員十五歳であることも……そして、現在サンクキンクダムに滞在しているパイロット達は全部で四人。
 そこまで思い出して、リツコはすぐその可能性に気付いた。
「貴方“ガンダム”のパイロットね。でも私達は敵ではないわよ」
「それは俺が判断する。サンクキングダムに見せていないデータが大量にある筈だ。裏がないのなら隠す必要もないだろう。それを見せて貰おうか」
 取りつく島のない台詞。
 だがこの少年は……そして以前彼同様にここに侵入した少年は、ほとんどシンジ達と変わらない年頃の少年だったのではないか。
 それがここまで立派な工作員として動けるとは、
(どんな教育を施したのかしらね。無茶な)
 ……けれど人のことは言えまい、と自嘲の笑みが浮かぶ。
 そうだ。リツコ達だってシンジ達を無理に戦場に立たせているではないか。
「どのデータを見せれば満足なの?」
「一番重要なデータはネットワーク上に残ってはいないだろう。成文化すらされていないデータ……話して貰おう」
「困るわね。クビになっちゃうわ、私」
「E計画、だったな。この組織の抱える“巨大”兵器に関するプロジェクト名」
 ……それではほとんどハックされた様なものだ。
 半ば彼の卓越したハッキング能力に感嘆し、そして何よりネルフ側のガードの甘さに歯がみしたい思いでリツコは溜め息を落とす。
 いや、それでもまだ一番重要なデータは読まれていない筈だ。
(ごまかしがきく相手ではなさそうだし。警備員は何をしているのかしら)
 すぐ側に緊急用の呼び出しボタンがある。
 デスクの影に隠れたそれは手を伸ばせば少年の視界に入れずに触れることが出来るものだが、油断のない彼の物腰を見ていると、多分不審な動きなどにはすぐに反応されるのではないか、と思う。
 だがまさか易々と相手に情報を渡す訳にもいかないから、仕方なくリツコは身体ごと振り返りかけて……。
 ぎょっとした様に息を止めて、五飛の背後に見える扉口から視線を離せなくなった。
「……何故、」
 リツコの茫然とした呟きにさしもの五飛も眉を潜め、それでも隙のない仕草でリツコの視線を追い、驚く。
 自分と同様に、まるで気配を殺したまま、そこに一人の女性が立っていたからだ。
「母さん……?」
 五飛の驚きをよそに、リツコは無意識の内に独白を漏らしていた。
 そこに居るのは確かにナオコだった。
 微笑とも滂洋とも取れる曖昧な表情、青白い頬。
 何より白衣をまとったその姿が無意識の内にリツコを納得させていた。
 そうなのだ。彼女は常に白衣で自分の前に姿を現す。いつもいつも……母としてではなく、研究者として。
 だがそんな筈はない。こんなことは有り得ないのだ。

 何故なら赤木ナオコは既に、五年も前に死んでいるだから。

「化けて出たの? 母さん。恨み事でもあって?」
 視界に映る少年の手の中の銃は、リツコの意識の中で消滅していた。そして少年の姿もまた。
 リツコの目に映るのはまるで何かを訴える様にして入口に立つ、あの別れた日から少しも変わっていない……赤木ナオコの姿だけ。
「それとも……これはマギの見せる幻なのかしら。今回の異常事態は、母さんとも関わっているとか?」
 ナオコは無言のままだ。
 研究室内の空気がひどく暖かいことに、リツコは気付いた。自動暖房が入ってまだそれ程時間はたっていないから、その効果の為とは思い難い。
 流れる穏やかな空気はまるでナオコから流れている様で、リツコは唇を噛んでじっと正面を見つめる。
「母さんの筈ないわよね。ゲヒルン時代に死んだもの。最後まで自分の心に忠実に、他のことなんてちっとも考えずに“女”として死んだ……なのに今更こんな幻影が現れるのはどうしてなのかしら」
「言っておくが、女。あれはホログラフではないし、生体でもないぞ」
 五飛が確認する様に呟くと、リツコはようやくすぐ眼前に立つその姿に視線を戻した。
 これは誰だったのか。ああそうだ、彼はこのネルフに侵入して来た少年だった。
 今リツコはとても大変な事態に置かれていた筈なのだ。
 だが……だが、それ以上におかしな現象が自分の目の前で起こっている。
 そうだ、何故今この時、こんな母親の幻影を見る必要があるのだろう。そこまで考えてリツコは少年をじっと見上げた。
「貴方にも見えるの、あれが」
「女が立っているのは見えている。だが妙だな。あれは、」
 その時、ナオコの姿が揺らいだ。
 まるでようやく目の前にまで近づいた望みが今にも失われ様としているかのように、リツコは動揺して腰を浮かせる。
 けれどナオコはかろうじて消えずに、ただもう一度じっとリツコを見つめた。
 自分のたった一人の娘、そして同僚でもあるリツコの姿を。
「……え?」
 ゆっくりと口が動く。けれど音は出ない。
 ナオコは苦しそうに何度か口を同じ形で動かすと、またしばらくじっとリツコを見る。
 けれどどうしてもその言葉が読み取れなくて、リツコは焦って声を上げた。
「分からないわ。何が言いたいの、母さん」
「駄目だ、と言っている。それからまだ気付くな、と。どう言う意味だ」
「……ダメだ、と、まだ気付くな……?」
 読唇術が出来るのか、リツコの焦る様子にそう解説してくれる五飛に、けれどリツコはそれでも言葉の意味が掴めない。
 一体何なのだ、これは。
「まさか。あの人がここに居ない理由を、母さんなら知っているの!?」
 ナオコは再び何かを告げようとした。したのだ、確かに。
 身を乗り出したリツコに、けれどその壊れそうな程脆い穏やかな空気を切り裂く様にして警報が鳴り響いたのは、ナオコが口を開く寸前のこと。
 はっとして顔を上げたリツコと五飛に、研究室内に緊急事態を告げる警報がしつこいほど響きわたる。
 と同時に電話が鳴って、それを手にするよりも母親のことが気に掛かって振り返ったリツコはけれど、扉を見遣って後悔する。
 一瞬の隙をついたかの様に、そこにはもうナオコの姿はなかったのだ。






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