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「失楽園」

第三部...11
 突如現れた不気味な巨大生物に、サンクキングダム・ピースクラフト学園は軽いパニック状態に追い込まれていた。

「皆さん、落ち着いて下さい。慌てず指定の避難場所に向かって、そちらで連絡が入るまで待機していて下さい。この国は完全平和主義国家なのです、私が存在する限りこの地での戦闘は決して起こさせません」
 立ち上がり、泣き出す女子生徒達を説得するリリーナの姿に、ヒイロはしばし周囲を見回した後窓の外に映っているそれを睨んだ。
 不気味な、これまでに見たこともない様なモノ。
 モビルスーツでもモビルドールでもない、あんなものが果たしてこの世に存在するのか?
(成程な。あれが“使徒”か)
 ヒイロの中にネルフでハックしたデータが甦った。
 使徒。人に酷似した、けれど完全な解読は未だ成されない謎の“敵性体”。
 学習能力を持ちその形態や習性は常に変動する為予測が出来ず、対処法はソレが現れた時初めて考えられることになる。
 時と場所を選ばず現れる為、市街地には常に多大な被害が出ると言う……使徒。
(やはり“ネルフ”を狙って現れたのか? あんなものが。厄介な)
 だがアレがこの完全平和主義国家に被害を及ぼす様であるなら、潰すだけ。ヒイロの行動は結局はもう決まってしまっている。
「ヒイロ、あれがネルフの話していた“使徒”なんだね?」
 立ち上がったカトルがヒイロに近寄り、周囲の騒ぎの中かろうじて聞き取れる程の声でそう尋ねてきた。
 けれどヒイロはそれに答えず、無言のまま教室の出入口に向かおうとして、自分の前に立ちふさがったトロワに留められる。
「よせヒイロ。今ガンダムで出るのは得策ではない。あれがどう言った存在であるのか、俺達の手元にはデータが少なすぎる」
 トロワの穏やかな声と深い緑の瞳に、ヒイロは少しばかりひるんで動きを止めた。
 リリーナの先導の声がじっとしているヒイロの耳に聞こえてくる。
 彼女の必死な、けれど見事に自身の感情を押し込めた落ち着いた声に、それでも女子生徒達の動揺はおさまらない。
 無理もなかった。窓の外には不気味に瞳を光らせる人間めいた巨体が見えているのだ、幾ら戦闘に包まれた時代を生きてきた少女達と言えどこれを見て平常心でいられるわけがない。
 いつもならどんな状況にも人々を安心させ従えることの出来るリリーナの穏やかで凛とした声も、さすがに初めて見る不気味な存在を前に恐慌状態に陥る少女達には届かないのだ。
「ヒイロ。僕もトロワの意見に賛成だよ。まずこの学園の生徒達の安全を計るのが僕達の役目だと思う。最悪の場合にはガンダムを使った避難方法を考えても良いし、どちらにせよ今回みたいな状況下では、戦うばかりが策じゃない」
「お前達はそうしていれば良い。だが俺は戦う」
 教室内の騒ぎは最高潮に達している。
 ヒイロに何か言いかけたカトルも、その様子に慌ててリリーナに駆け寄り、揃って生徒達を誘導しようとした。
 けれどパニックはおさまらず、この場の状況収拾は非常に難しい様に思われた……。

 がしゃん。

 と言う透明な音が響き渡ったのは、その時だ。
「…………あ、綾波、」
 ほとんど同時に、教室内部の人間は音の聞こえた窓辺を振り返っていた。
 窓ガラスが派手に割れている。
 そしてその脇には、どこから持ち出したのか掃除用のホウキを手にして表情一つ変えずにこちらを見つめている綾波レイの姿と、それを真っ蒼な顔で眺めるシンジの姿があった。
 割れた窓の向こうではかなり近い場所で動いている“使徒”の顔のアップがゆらゆらといやにリアルに見えていて、表情のないレイの姿と並ぶとそれは、まるで映画の中のワンシーンの様に、生徒達の目に映った。
「騒ぐのなら、避難してからの方が良いわ」
 しん、と教室の中は静まり返っている。
 あっけに取られた様なようやく我に返った様な不思議な顔。
 そんな顔が並ぶ中で、ただヒイロばかりがじっとレイの姿を注視した。
 綾波レイの赤く、無感情な瞳。けれど彼女は何かを知っている筈だった。
 何故なら初対面のヒイロに向かって知り得る筈のない事実を、彼女は告げていたのだから。

“真実は、いつも目に見える訳じゃないわ”

 思い出す光景。
 初めてネルフに侵入した時彼女が口にした言葉。けれどどうしてあの時の彼女にそんなことが理解出来たのか。

“全て、初めから決まっていること。だからそこからは何も得られない”

 それはどう言う意味なのか。とらえどころのない言葉だったけれど、ヒイロには何故かそれが彼女の口からの出任せでないことを知っていた。
 そう。彼女はもしかしたら全てを最初から知っている唯一の存在なのかも知れない。
 ようやく静かになった教室に、駆けつけたノインとパーガンがリリーナ達と揃って生徒の避難誘導を始めていた。
 その様子を静かに見つめてホウキを窓辺に立て掛けたレイは、そのまま静かに窓の外を見下ろしている。
 下に何があるのだろう……けれどヒイロはその確認もしないまま、カトルやトロワが制止の声を上げる間もなく教室を飛び出した。
 綾波レイやシンジ、アスカ達ネルフ側からの転校生達に護衛が付いていることは初日から知っている。黒服のあの連中を捕まえれば嫌でもネルフに運んでくれるだろう。
 この事態にネルフの警戒体制が厳しくなっていることは容易に想像がつくけれど、一刻を争う今、それらのガードを解いてネルフに侵入している暇などヒイロにはない。
 転校生達がパイロットであるとの説明はネルフ側から既に受けていたし、ハックしたデータからそれが確かな情報であることも確認済みである。
 多分彼女達についたガードマン達はすぐさま三人をネルフに運ぶ為動くことだろう。その前に捕まえなければ。
 けれど庭に回って外に飛び出した時、ヒイロはそこに信じられないものを見て硬直した。
 穏やかな緑の木漏れ日の中、ぽつんとあるベンチ。
 その両端に二人の人間が腰掛けていた。
 いや。しかし問題はそんなことではない。
 勿論このパニックの中で平和にベンチに腰掛けている人間がいるのは十分奇妙な出来事に値したのだろうけれど……。
 問題はその人間の片方が、綾波レイであったこと。
(馬鹿な。あの女はついさっきまで教室に……!)
 思わず教室を振り返ってしまった。
 一体いつの間に、レイはどうやってヒイロより早く外に出ていたのか。
 だが有り得ないことだ。こんなことは有り得ない筈なのに!
「もうすぐ始まるわ」
 ぽつりと呟かれた言葉は綾波レイのもの。
 姿同様、声もまた綾波レイそのもので、だから耳に届いたそれにヒイロは認識せざるを得ない。
 これは綾波レイか、それともクローンに近しい程に“綾波レイに酷似した”存在であると言うことを。
「……結局、リリンは神にはなれない。なのにそのことを理解するリリンが少ないから、僕達は生まれてきた。そうしてまた全てが始まろうとしているんだね。それがとても小さな革命で済むのか、それとも全てを変えてしまう程大きなものなのか」
「全部“    “の決めることだわ」
「まるで殉教者の様だね、君は」
 レイと少しの距離を置いて言葉を漏らすのは少年だった。
 グレーの髪にレイと同じ赤い瞳をした少年。
 表現し難い不思議な表情を浮かべている……それはどちらかと言うと、何かを超越してしまった様なアルカイックスマイルに近い気がした。
 口もとの微笑は自身の感情の為ではなく、他者に向けられた慈愛のそれにも似た。
(あれは、一体誰だ?)
 綾波レイの持つ空気にとても似ていると思った。捕らえがたいそのオーラがとても。
 そちらに向かって踏み出そうとして、けれど気配を感じてヒイロは機敏に振り返った。
 後ろから慌てて駆けつける少年の姿がその視界に映る……遠目でもすぐに分かった。
 それは碇シンジ……件のネルフからの転校生のものだ。
 自分を追って来たと言うより、自然にここに迷い込んだ様子で彼は駆けて来る。
 もしかしたら外に出ている惣流・アスカ・ラングレーを捜して教室から出てきたのかも知れなかったけれど、彼が訪れたのは他でもないこの場所だった。
 すぐに向こうでもヒイロに気付いて、少しばかり躊躇しながらも近くまで走り寄って来ようとする。
 けれど。
 彼はそのままゆっくりと立ち止まった。眼前の、ヒイロの向こうにあるベンチを見た途端に。
「カ……カヲル、君?」
(知り合いか!?)
 ヒイロを認識すら出来ない程茫然としたシンジの呟きに、ヒイロは驚いてベンチを振り返る。
 知り合い、そうとしか思えないシンジの言葉に確信を持ってベンチを見たヒイロはけれど、映った光景に愕然とした。
(馬鹿な)
 本当に、一瞬目を離しただけだと言うのに。

 そこにはもう、誰の姿もなかったのだ。


*****


 ぞろぞろと、落ち着きを取り戻した生徒達が教室を出て行く中、ドロシーは窓辺に顔を乗せてじっと眼下を眺めていた。
 かすかに低姿勢なのは下からその姿が見えない様、ちゃっかり計算している為である。
(今のは、綾波レイと……誰?)
 窓の下にはベンチがある。そしてその側にヒイロとシンジの姿……ベンチには人影はなく、けれど確かにドロシーも見ていたのだ。
 瞬きの間に消えてしまった不思議な二つの姿を。
 ヒイロが慌てて飛び出し、そのすぐ後にレイと言葉を交わしたシンジが廊下に出た様子を見て、ドロシーは奇妙な高揚感を味わっていた。
 視線のずっと先には“使徒”の不気味な巨体が見えており、教室を出ていく女子生徒達は揃ってこちらを見ようとはしない。
 その異常事態を逆手に、ドロシーはゆっくりと窓下の様子を眺めることが出来たのである。
(あのヒイロの慌てぶりと言い、やっぱり綾波レイこそが今回のキーマンなのかしら。だとすれば、駄目じゃないヒイロ。貴方はプリンセスを守る騎士なのに、こんなことで動揺するなんて期待外れ過ぎるわ。頑張って頂戴ね。今回の脇役、このままじゃ私達の方になってしまいそう……)
 くす、と小さく笑うとドロシーは窓から離れ、こちらの様子に気付いていたらしいトロワを振り返った。
 カトルは誘導に加わっているのだが、彼は不審なドロシーの動きに気付いてその行動を伺っていたらしい。
(どちらにせよ、この舞台にはこれだけの登場人物が揃っているんですもの。面白いお話が出来上がるに決まってるわ)
 避難解除になれば部屋に戻ってトレーズ様に連絡を取らなきゃ、そんなことを考えつつ。
 ドロシーは再び、ゆったりと微笑んだ。








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