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「失楽園」

第四部...2
 LCLの中で、シンジはゆっくりと瞳を開けた。
 しばらくぼやける景色。けれどすぐにはっきりする。
(結局、世界が変わっても僕がこれに乗ることには違いないのか)
 身体にはりつくプラグスーツ。もうすっかり慣れてしまった羊水の様なその中で、シンジはしっかりとインダクション・レバーを握り締めていた。
 生の実感、必要とされる自身への安心。
 そう言ったものよりも、何故か不思議と落ち着く心を感じる場所で。
 そう、ここはエヴァ初号機のエントリープラグ内。
(だけど……さっきのあれって、何だったんだろう)
 さっき、サンクキングダムでシンジが見たもの。
 自分は確かにあの少年の名を呼んだのだ、初めて会う筈の人なのに……何故?
 再び目を閉じれば、思い出すのは緑に包まれたベンチに腰掛けていた少年の姿。
 レイと少し離れたベンチの端に座り、穏やかに微笑していた彼をシンジは懐かしいと思った。
 けれど何故?
 それともあれは幻覚の様な思いだったのか。
 第一、まばたきした次の瞬間にはもうベンチの上に人影はなかったのだから。
(でも違う。彼も……ヒイロだって何かを見た筈なんだ。だからあんなことを聞いてきたんだろうし、それに)
“知り合いか? 今の男は。すぐ側に綾波レイも居た”
 見知らぬ少年を見て自分でも無意識の内にその名前を呼んでいた。
 そんな自分に驚いた途端に腕を掴まれて、そのままヒイロに尋ねられて更に驚いた。ヒイロがとてもおかしなことを言ったから。
 少年のことも変だったけれど、何よりレイのことだ。
 すぐ側に綾波レイもいたなんて……確かに自分の目にもそう映ったけれど、彼女はまだ教室に居たのだ。
 少なくとも彼女自身があの時刻、あの場所に現れることが出来る筈もない。
 すぐ考えれば分かること。けれどヒイロもそれを知っているからこそ、シンジに詰め寄ったのだろう。
 彼のほとんど感情のない瞳にかすかな驚きを見出してそう分かる。
“一体どうなっている。この訳の分からない状況の発端はネルフにあるのか?”
 どうしてそんなこと、言うんだろう。訳が分からないのはこちらだって同じなのに。

『シンジ君、聞こえる? 零号機と弐号機は揃ってバックアップに回るから、まずは貴方が先制をうって。敵本体はもうすぐ現れると思うけど焦らないで、パレットライフルで狙い撃ちして』
「はい」
 ミサトの通信とほぼ同時に、ジオフロントに降り立つ姿。
 漆黒のエヴァの影をそのままくりぬいた様な敵本体が、ふわりと地面に着陸していた。
 反射的にそれに向かってライフルを発射させるが、すぐにATフィールドが働いてすべてを遮断してしまう。
(中和してるんじゃないのか!?)
 黒い、何の表情もない“顔”が突如こちらを見た。
 射すくめられた様な形でしばし制止して、シンジはどきりとする。
(こっちを見てる……)
 それ、は確認する様にじっくりと前頭部を揺らした。
 獰猛な獣の様な動き……生々しいけれどこれは人ではない、使徒なのだ。しかし、
「ミサトさん。あれってエヴァじゃないんですか? もしそうなら人が乗ってるんじゃ」
『違うわ、エヴァじゃない。人が乗っている形跡もないし、幾ら似ているとは言え別物だもの、エントリープラグの存在も確認されてないわ。妙な心配してないで攻撃よ』
『馬っ鹿、シンジ前っ!』
 突如割り込む通信用ウィンドウにアスカの顔が浮かび上がっていた。
 はっとして眼前の“使徒”に視線を戻したシンジは、それがすぐ眼前まで迫っていることにようやく気付く。
 気配も音も何もなかった。まるで空気の様に自然に、使徒はシンジの……初号機の前まで移動していたのだ。
「うわっ」
 繰り出される黒い使徒の両手に、シンジは咄嗟にエヴァの両手を絡ませた。
 ぐっと強く押される形になって、それでもシンジは何とかプログナイフを出そうとする。
 ライフルは弾切れで、装填する時間も隙もまずなかった。
『碇君、よけて』
 突如走るレイの声。
 咄嗟にしゃがんだ初号機は、途端飛んできたスマッシュホークをかろうじて避けることが出来た。
 斧はそのまま使徒を狙い、首に向かって突き刺さった……筈だったのだが。
(え?)
 至近距離で起こったことだと言うのに、束の間それを認識出来なかった。
 眼前の使徒に変化はない。……そう、ATフィールドに弾かれるのならまだ分かるのだが。
 スマッシュホークは何故か、そのまま使徒を通り過ぎてしまっていたのだ。
「な、何だよこれ!」
 再び使徒の握られた両手に力がこもる。
 焦ってハンドルを握った時、不意にシンジは奇妙な浮遊感を味わった。

“……いいよっ! 人を殺すよりはいいっ!”

(これは)
 誰の、声だ?
 視界がぼやけた。LCL注入直後の視界の様だ。
 モニター全面に映る使徒の姿もシンジには遠く、ただ脳裏で耳鳴りの様な声が響いている。
(これは。僕の、声?)

“僕はもう、エヴァには乗りません”

 真っ赤になる。血の色? でもその向こうに見える景色は普通の第3新東京市だ。
 そこに血しぶきが舞った。何度も何度も繰り返される殴打。嫌な音がして崩れる顔。
(僕の記憶。これが? まさか)
 ……………………………………日暮れだった。
 遠くから歌が聞こえてきた。あの時はとても困っていた。とても孤独で、とても不安だった。誰かに側に居て欲しいと、けれど誰かが側に居ればどうすれば良いのか分からなくなっていた。どうにかしたいのにどうすれば良いのか分からなかった。
 だから助けを求めていたのだ。この自分にもどう仕様もない自分と現状とを変えてくれる、自分に“安心”と“安らぎ”を与えてくれる存在を求めていた。
 拒絶されるのが恐いから踏み出せずに、なのに誰かが踏み出してくれれば良いと思っていたのだ。とても狡くそう考えていた。
 願いは卑怯で傲慢だった。自分が傷付くのは辛いから、他人から歩み寄って欲しい。けれど他人が傷付けば自分も傷付くから本当は恐かった。
 だって自分がどれだけ人の支えになれるのかなんて言われたら答えられない。安心を与えて貰っても自分がその人の安心になる自信なんてないから、自分は他人に与えられることばかり望んでいた。
 なのに願いはかなう。不思議な位の奇跡でシンジに“優しい”存在が現れたから。
 誰より自分を分かってくれて誰より自分に歩みよってくれて、しかも彼は常に与える側の存在だった。彼となら共に苦しみを分かち合って生きて行けるのかも知れなかった。
 けれど……けれど? 何故、それが出来なかったのだろう。
 時間がなかったからだよ。
 胸の中の虚空でひっそりと笑う子供の頃の自分。
 時間がなかったからだ。少しの時間しか一緒にいられなかった。だって僕が全てを終わらせてしまったから。
 終わり?
 そう。君が彼を、
(ヤメロ)
 その手で。結局、彼の命を、
(キキタクナイ。ヤメテヨ)
 彼を、コロ……………………………シ………………………………………………。
「いやだ、聞きたくないっ!」
 あざ笑う自分。その向こうに景色が見える。
 そこは薄暗い大きな場所、エヴァが見えていた。何かを握り締めるその姿はまるで悪夢の様にリアルに胸に迫ってくる。リアル?
 当然ではないか。これは。
 現実なのに!
(ワスレタイノニッ)
 微笑む少年の姿。自分の死を望んだ少年。自分に死を与えられた少年。
 全てが鮮明に脳裏に刻まれる中で、
 記憶が、弾けた。






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