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「失楽園」
- 第一部....1
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- 「ちょっと、これってどう言うこと?」
眼前にモニターされた地形図に、ミサトは驚愕の声を上げた。
夜勤明けにようやくマンションに戻ろうとした矢先の異変だった。
ネルフ内に鳴り響いた警報に駆けつけた中央作戦司令室。その中核である司令塔第一発令所には、同じく夜勤のまま帰る機を逸してしまったオペレーターの面々が顔を揃えている。
ネルフ内部の研究室にいた筈のリツコも、既に厳しい表情でメインモニターを睨んでいた。
「リツコ。あたしの見間違いじゃなければ、これって一晩で日本の地形が変わっちゃったってコトなの?」
「あなた、まだ外には出てないみたいね。外部気温を聞いたらもっと驚くわよ。まるで冬並み」
「……何なのよそれ、冗談でしょ? 地形変動の次は気温変化、ちょっとシャレになんないわよ、この異常事態」
「地形は、セカンドインパクト以前のデンマークのものに酷似しています。まるで第三新東京市だけがデンマークに移動したみたいに……有り得ないことですけど」
ミサトの情け無い声に答えたのは、リツコの部下でもあるオペレーター、伊吹マヤである。
打てば響くような速さで返ってきた言葉においおい、と頭を抱えるミサトだった。
「あっちにはドイツ支部勤務の時に顔出したし、ちょっとは分かるけど。確かにこんな地形じゃあなかったわね。どーなってんの」
「使徒の存在は今のところ確認されていませんし」
「で、テロ活動の一環である可能性も薄い。これで他に何か理由でもあげられる訳?」
一人ごちてちらりと視線を流せば、開いたままの司令席が映る。
幸か不幸か碇司令と冬月副司令はまだこの場に姿を見せていなかった。
(下手すりゃまた首飛びかけー……まずいわね、これは)
「いちお、聞いとくけど。ターミナルドグマに異常は?」
「見られません。やっぱりこれは、ネルフの出る幕じゃなさそうですよ」
日向マコトの返答に、それでもミサトは小さく首を振る。
「だけど異常が起こったのはこのネルフを擁する第3新東京市だけ、更に外部との連絡も断たれてる訳でしょう。無視は出来ないわよ。でしょ、リツコ」
「正確には第3新東京市とその周辺の居住空間の一部、だけどね」
……モニターされたのは、確かに現在の日本では有り得ない地形状態だった。
まず陸地の水没個所が見られない。
セカンドインパクト以降南極の氷は溶解し、その為海洋の水位は20mも上昇してしまった。地球はその姿を変え、陸地と海洋の対比率も塗り変えられてしまったのだ。
セカンドインパクトの中心舞台となった南極は今では高熱の為氷を失い、あちこちに広がるクレーターは赤紫色の海水をため、塩の柱を屹立してしまっている。
それはまさに地獄、と云う言葉を自然に連想させる様な不気味な世界だった。
……なのに、ここにモニターされた地形を見ると、陸地は沈むどころか通常の面積を見せ、おまけに外は冬並みの気温を保っていると云う。
更に外部との連絡の不通。第3新東京市内であれば通常の連絡は可能であり、異常もない。
つまりはそれより外に連絡を取ろうとすると、途端通信方法がなくなると云う……第3新東京市が隔離されてしまった様な状態になっているのだ。
「調査部と諜報部が動いているそうだから、状況はすぐに分かるでしょう。一般市民の動揺が心配ね」
「……さすがにバレるか、こんだけ寒けりゃーねー」
「取り合えずパイロットに招集かけた方が良いんじゃないの、葛城三佐? 何が起こるか分からないわよ。ぎりぎりまだマンションにいるんでしょう」
「そうね。日向君、第1種警戒態勢へ移行、パイロットを招集してエヴァの微調整を急ぐ様に」
「分かりました。……総員、第1種警戒態勢へ移行」
「後はま、偵察が戻るか事態が動くかを待ちましょうか」
非常招集の連絡を聞いた時、シンジはちょうどマンションを出るところだった。
「ちょっとバカシンジ、もたもたしてると置いてくわよ。あんたって何で玄関にまで出といてそうトロい訳ぇ? ほんっと、信じらんない」
「ご免……だって電話を取ってる内にアスカが玄関に出たから……」
「言い訳しない! 男でしょお。ほら、さっさと出なさいよ。先行っちゃうわよっ!」
最近何故か機嫌の悪いアスカの声に追い立てられる様にして、シンジは慌てて受話器を戻した。
その様子を眺めてから玄関の扉を開けると、アスカは一歩外に踏み出し……た途端。
大げさな声を上げると、アスカは再び室内に戻って扉を閉めてしまった。
勿論理由は明白、今までに経験のない寒さが開いた扉から忍び込んできた為。
朝方から冷え込んでいたとは気付いていたし、アスカもシンジもそれなりの覚悟は出来ていたのだが……それにしたって、温暖化した日本ではとても考えられない迄の寒さだ。
「さっむーーーいっ! ちょっと急いでよ、こんな所でじっとしてたら氷っちゃうじゃない。もう、信じらんないっ」
深呼吸すると、アスカは覚悟を決めて再び扉を開ける。
どやされないうちにと、続いてシンジも学生カバン片手に外にまろび出た。
「でも、どうしたんだろうね、緊急事態なんて」
「使徒が出たんでしょ。じゃなきゃこの異様に寒い外の説明つかないじゃん。まさかこの寒いのまで訳の分かんない使徒のせいだってんじゃないでしょうね。アメリカでもドイツでもこんな寒い思いしたことなかったのに、ったく!」
などと言うアスカは、もうとっくに制服の上に薄手のコートを羽織っている。
日本から外に出たことのないシンジはあまり防暖着を所有していなかったのだが、それでも出る間際にこれまた薄手のジャケットを羽織っていた。
マンションを出ると、通行人のほとんどが防暖着を身にまとっている。
突然の寒さに動揺しながらも、日常のサイクルを着々とこなしていくその姿に、何となくシンジは苦い気分になった。
人々の吐く白い息がひどく冷たく見える。
こんな異常事態なのに……全部。
(いつも通り、か)
「ほら、急ぐわよっ」
ネルフ&UN公用車がマンションの近くに停車しているのを確認して、アスカが駆け足になった。
シンジもすぐに我に返ると、その後を追って駆け出す。
いつもはモノレールを使用する二人も、今回の様に特殊な場合の迎えがあった場合はそのまま車に乗ってカートレインを利用する。
ネルフ本部は第3新東京市の真下のジオフロント(地下世界)に存在していて、モノレールとカートレインが交通手段となっていた。
駅につくなり離れた迎えの人間を置いて、シンジとアスカは本部への無人入館ゲートの前に立つ。
カバンから出したIDカードをスリットにスライドさせようとして……。
カチ。
と、カードが奇妙な音を立てた様な気がして、シンジはスライドさせたばかりのそれをじっと眺めた。
「……」
「何してんの?」
「うん。何か……今変な音がしなかった? これ通した時に」
「別に普通じゃない。それよりほら、ファーストがご到着よ。IDに異常ないんなら細かいこと云ってないでさっさと中入んなさいってば」
早々とゲートの中に入ったアスカがシンジの背後を見遣りつつ云うのに振り返れば、手の中の学生カバンを肩に乗せたレイが、いつもの通り夏用の制服のまま姿を現したところだった。
薄手の制服のまま顔色一つ変えていないその様子は、見ているこちらが寒くなりそうな冷やかさだ。
「あんた、こんな時くらい何か着たら? 風邪引くわよ」
声をかけるつもりはなかったのに思わず。
そんな感じの声を聞いて、ちらり、とレイの視線がアスカに向かう。
それからしばしの沈黙の後。
「……風邪、引いたことないから」
「だからこっちが寒くなんのよ、あんた見てると! ああもう、何でエヴァのパイロットってこう変人ばっかりなのかしら。マトモなのはあたし位よね」
云うなりアスカはモノレールに向かってさっさと歩いて行ってしまった。
その後を追いかけようとしてふと振り返ったシンジは、手の中のIDカードをじっと睨んでいるレイに気付いて立ち止まる。
何か言葉を掛けようとしたものの、それより早く、レイはシンジの前を通ってモノレールの方に歩いて行ってしまった。
(綾波も、何か気付いたのかな)
モノレールの中で尋ねてみよう、そう思いつつ、結局シンジは機会を失ったままその件について忘れてしまっていた。
その後すぐに、忘却を後悔することになるとも知らずに。
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