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「失楽園」

第四部...16
 深い羊水に浸かる胎児の様な安心感が、レイの全身を包んでいる。何て暖かい鼓動。命の証、死に近づく為に時が刻む音。
 いのち。
 吐息が泡になる。LCLの詰まった耳の奥にも響くこぽこぽと言う音。鼓動の音に混じって届く。
 ずっとそこに居るのはとても幸せなことだった。この世界は優しいから。
 優しい人が造った世界だから暖かくて柔らかい。世界を感じるのに創造主の優しさが関係こそすれ、その弱さまでは影響しない。全てがこの身を包む温もりに替わってしまうから。
 ずっと居たい、ここに。
 だけどここに居ては駄目になってしまうことをレイは知っている。自分が、ではない。全てが。
 何故ならここは変革を求める為に造られた場所だから。だから……この羊水のただ中の様な場所からはいつか出ていかなければならないのだけれど。
 いつか出ていくと決まっている場所なら、せめてもう少しここに。その時まで。
 けれどレイはその時がもうすぐそこまで迫っていることを感じ取っていた。
 もう、本当にすぐそこまで。


*****


 しばらくアンラッキーなことばかりが続く中、ずっと不機嫌状態が続いていたアスカははっきり言って周囲の人間に……少なくとも初対面の人間には余り好印象を与えていなかったに違いない。
 ちょっと怒りっぽくて(いわゆるヒステリー気味)嫌な奴、位は思われていたかも知れない。
 アスカの側に自覚があった位なのだけれど、だからこそこの時のアスカの態度の変化はその場にいた全員の目を丸くさせた訳なのである。
 すなわち、
「きゃああああっ、加持さぁんっ〜。嘘みたい、こんな所で会えるなんてっ」
 通路の向こうからやって来る加持に気付くなりハートマークふんだんの愛情ぶっち切り声を上げたアスカは、そのまま茫然とする一同を置いたまま加持に向かって一直線。
 走って更に飛びついたりなんかしたのである。
「ずうーっと会いたかったのに連絡取れないし、ミサトも赤木博士も意地悪して加持さんの居所教えてくれないし、凄く寂しかったんだからー」
「ちょっと調べ物があってね。やあ、シンジ君。珍しいお客だけど、作戦本部長殿の許可は取り付けたのかい?」
 アスカ同様久しぶりに加持の姿を見たシンジは、アスカのはしゃぎ振りにちょっとびっくりしながらもはにかんでみせる。
「はい。そう言えば加持さん、トウジ達とは以前会ってるんですよね」
「そうだな。だけど外部からのお客様とはこれが初めてだよ。……特殊監察部所属の加持リョウジだ。よろしく頼む」
 何となくその場で自己紹介大会が始まってしまう。
 以前ミサトとシンジとアスカの住むマンションの部屋で顔を合わせたことのあるヒカリ達は、それでも外で出会うのとは違う制服姿の加持に少しばかり緊張して直立姿勢になっている。
「デュオ君にトロワ君、か。どうも地上じゃおかしなことが続いている様だが、お互い苦労するな」
 せっかく再会したのにちっとも構ってくれない加持の腕に、少し頬を膨らませたアスカがぶらさがっている。
 ちょっと気になるそれを視界の端におさめながらも、デュオとトロワは加持と握手を交わした。
 ますますアスカの頬は膨れてほとんど怒れるフグ状態である。
「ねー加持さん、ホントに今までどこに行ってたの? あたし達がサンクキングダムに行くって話になった時だって見送りにも来てくれなかったし……」
「部署が部署なだけに、色々事情があるのさ。弐号機が戦闘で動かなくなったって聞いたんだが、大変だったな。今は零号機が待機中って話らしいじゃないか」
「起動実験したから、そのついでじゃないかな。それに動かないのは弐号機だけじゃなくて初号機も。……加持さんにはカッコ悪いコトばっかり知られちゃう」
 最後の方はほとんど呟き。もしかしたら無意識のものかも知れない。
「でもこのあたし、惣流・アスカ・ラングレー様はすぐに復活して、弐号機にだって乗れる様になるんだから。そうしたら今度こそあたしのカッコ良いトコ見てね、加持さんっ」
「そいつは勿論、特等席でね。だけど時間があるかな」
「そんなに忙しいんですか、やっぱり」
 思わず尋ねたシンジに、加持がいつもの内心を探らせない笑みを浮かべる。
「今は誰も忙しいさ。こんな状況だからね。そう言えば発令所の方はばたばたしてたぞ、何でもサンクキングダムの方にまで消失現象が起こってるんだとかで」
「……え。嘘、マジかよそれっ」
 さっとデュオの顔色が変わる。案外緊張感なくさりげにそんなことを言う辺り、本当にネルフサイドの人間は掴めない……などとあんまり人のことは言えない無表情さで思いながら、トロワもデュオを振り返る。
「急いだ方が良いな」
「ああ……」
「加持さんは行かないの? あっちは発令所とは反対方向だけど」
「俺の仕事はあっちにはないからな。アスカは違うだろう?」
 加持の言葉に駆け足で発令所に向かおうとする面々に、アスカの目はもう少し加持についていたいと言っている。
 でも……多分彼はそれを許さない。
「分かった。行くわ」
「ホンマあいつ二重人格とちゃうか。ころころ変わりよるやないか」
「鈴原には分かんないのね、女心が。好きな人の前では良い子で居たいのよバカ」
 トウジとヒカリのひそひそ話はどうやらアスカにまで届かなかった様だ。横ではケンスケが目だけで「いや〜んな感じ」と語っているものの、シンジにはアスカの態度の変化の理由が彼なりに理解出来る気がした。
 男女間の愛情ではないけれど、嫌われたくなくて一生懸命に振る舞うのはシンジも同じだったから。
 それでもやっぱり離れて行く人達に段々と憶病になって、今ではもうすっかり甘え方を忘れてしまったのだけれど。
「加持さん、もうちょっと落ち着いたらまた買物に付き合ってね。ちょっとの時間でも良いから」
「ああ。勿論付き合うよ」
 にっこり人当たりの良い微笑を浮かべると、加持はそのまま皆に会釈して歩いて行ってしまう……自然に彼の腕から離れたアスカの手が、目的を失ってぶらんと空に落ちた。
「つまんないの」
 ぽそりと洩らされたアスカの呟きは小さ過ぎて、去っていく加持の背中までは届かなかった。






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