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「失楽園」

第五部...2
「葛城」
 不意に呼ばれて、ミサトは振り返った。次の戦闘に備えて、作戦を練るための参考資料データを取りに戻った帰りのことである。
「加持君? あなたってホントに神出鬼没ね」
 振り向いた先の皮肉な笑みに、ミサトは溜め息混じりの声を落とした。
「で。何してたの? この数日間。シンジ君が第3新東京市の消失事件の直後に会ったって言ってたから、その件のことで動いてるんじゃないかとは思ってたけど」
「俺が?」
「どうせ何か知ってるんでしょう? 少しは協力して、吐いてほしいんだけど。碇司令や冬月副司令の不在も、この異常現象のことについてもはぐらかすばっかりで……違う?」
 誰もいない移動用通路とは言え、余り人に聞かれて良い話ではない。
 けれどそれらの心配の一切を捨てて、ミサトは加持を睨みつけた。もうこれまでに十分すぎるほど配慮してきた結果がこれ、こんな状況で他のことに構っている余裕なんてない。
 事態は刻々と進んでいる……ミサト達の知らない場所で、しかも最悪な方向に。
「それとも何か別のことを調べてた?」
「葛城。君は“真実を知らない”と言ったな、あの異変の起こった日」
「……え?」
 思わず顔をしかめて聞き直す。
「ええ……言ったわ、確かに。貴方もそうでしょう? だから危ない橋を渡ってまで真実を探る。でも私は……」
「それは嘘だな。君は知っている。もう知ってるんだ、葛城。なのに知らない振りをしている。この世界では君はまだ知るべきじゃないからだ」
 向けられるのは、真摯な瞳。そこに映る自分の顔がひどく歪んで見えて、ミサトは手の中の書類が音を立てるほど指に力を入れながらも、その場に立ち尽くすしかない。
 とても恐ろしい何かが、すぐ目の前まで迫っているのに。
「知ってるんだ。それを思い出せ。ここではもう俺は君に何かを与えてやることが出来ない、それこそ真実を語ることも。消失現象は起こるべくして起こったことだ、そしてまだ終わらない。消えるべきものが残っている限り」
「加持……君、あたしは」
 まただ、とミサトは思った。冷や汗が流れる様な嫌な感覚が額に残る中で、浮かび上がる想いはあの時と同じもの。
 そう、それは不安だった。加持と以前話していて感じた不思議な不安。
 何故と自身に問うても答えの出なかったそれが、またミサトの胸の中にある。
 寂しさと不安が。何かを失ってしまう絶望感を予感させるそれに、ミサトはどきりと鼓動を早くした。これが絶望感の前触れだと分かるのはそれを以前に経験しているからだ。
 けれど……以前とは「いつ」のことなのか?
「消えるべきものとは全てだ。葛城、」
 加持の姿が揺らいだ。まるで向こうが透けそうなほど薄れて、でもミサトは、胸中にある不安に縛られてまばたきも出来ない。
 眼前にこうしてある彼の姿が。
 今にも消えてしまいそうなのに。
「加持君、貴方まで、まさか、」
「“真実は君と共にある。迷わずに進んでくれ”……もう一度」
 しっかりと心に刻む様にそう言うと、加持は消えゆくその顔に最後の微笑を浮かべた。
 今度こそミサトは息を呑む。失う予感に。
「あの時言えなかった言葉は、結局、最後まで言えず仕舞いだな」
 留守番電話。頭の中に甦る冷たい音。機械が残したもうどこにもいない人の声。広くて狭いリビングの冷たい床。冷たい……空気。後から知らされる死。取り返しのつかない。
「加持君っ!?」
 意識が急速にはっきりとする中で、ようやくはっきりと目を開いて見たその先には、けれどもう加持の姿はなかった。
 ただ誰も居ない通路に一ツ、小さなカプセルだけが転がっている。
 震える手でそれを拾い上げた途端……警報が、鳴り響いた。


*****


 しばしの休憩の後、デュオに肩をかりてようやくたどりついたヒカリ達の部屋の前。
 ノックして返事がなかったので、多分内からのセキュリティ解除がないと駄目だろうな、と思いつつ恐る恐る触れたドアが簡単に外に動く。
 あれ、とアスカは、ドアノブにかけた手に力を込めた。
「……開いてる」
「ロックは絶対って言われてたよな、どうしたんだろ」
 アスカの台詞を奪ったデュオがまずそう言って、視線で合図を送りながらドアを開く。
 けれどがらんとした室内には誰もおらず、ただ、ヒカリの居た形跡だけがベッドや簡易テーブルの上に残っていた。
「外に出たのか?」
「まさか! 男連中ならともかく、こんな危ない場所一人で歩くなんて真似、ヒカリはしないわよ。あ、じゃあ三バカトリオの二人は……っ」
 慌てて隣の二部屋に向かうと、やはりドアは開いたままになっている。
 そちらもやはり、人の気配がなかった。
「……嘘。まさか三人で出歩いてるの? ネルフの中を」
「ケンスケならありえない話じゃないよな、相当興味持ってたし」
 いつの間にか、トウジやケンスケともファーストネームで呼び合う仲になっていたらしい。デュオの呟きに完全復活したアスカは、支えを無視して再びヒカリの部屋に飛び込んだ。
 絶対おかしい。アスカに内緒でこんな緊急事態の中、冒険みたいな真似をするなんて。
 だってヒカリならむしろ止める筈なのだ。委員長で責任感が強くて、こんな後先のことを考えない様な行動に移る子じゃない。
「まさか」
「何だ?」
「誰かに拉置されたとか! あ、あと、あたし達に内緒で避難者の仮設に移されたとか、ミサトが何かしたとかっ」
「勝手にそんな真似する位なら、最初からここに入れないだろ? でも確かに……おかしいな。見ろよ、ティーセットがそのままになってる」
 ヒカリの部屋のテーブルの上にある紅茶のカップ。
 アスカが紅茶を持ち込んで、一緒にダベりながらクッキーでもつまもうなんて言っていたものだ。それが入れ立ての湯気の出た状態でほとんど口もつけないままそこに乗っている。
 見ればトウジやケンスケの部屋も同様で、コーヒーや雑誌などが何かしら中途半端なまま放り出してあった。
「紅茶の用意をしたってことは、その後の予定は特に入ってなかったってことだ。急に予定が入ったのなら別だけど、それなら何か手紙なり何なり残すだろうし、それすらもできないような大事があったにしても、ミサトさんや俺達に内線で知らせるはず」
「じゃあヒカリは……」
 一瞬だけ。嫌な想像をしてしまった。
 アスカはもう一度、ヒカリのいた筈の部屋の中を見渡す。
 鉄で出来た備え付けみたいなベッドにテーブルに椅子、それから紅茶とラジオ。
 テレビはなくて、見たいならアスカと一緒に視聴覚室まで行かなきゃいけなかったから、ヒカリはほとんどの近況をラジオから取り入れていた筈だった。
「とりあえず捜そう。アスカ、お前は皆の居る場所に戻ってた方が良いな。顔色も悪いし喉のトコもほら、赤くなってる……それから誰かに連絡を」
 背後から離れるデュオの気配。アスカは室内を眺めていた視線をそちらに向けようとして、けれどすぐに動きを止めた。
 部屋の隅に出来た暗がりの中で何かが動いた様な気がしたのだ。
(ヒカリ?)
 思わず一歩踏み出す。けれど歩を進めるうち暗がりの中の何かは段々と大きくなり、やがてそれはゆっくりと電灯の下にまで広がってきた。
(…………え?)
 嘘。そう思って声も出せないまま動けなくなる。
 そこに居たのは……アスカだった。
 幼い頃のアスカが、小さな人形を抱えてじっとこちらを睨みつけている。
「……なっ!」

“弱虫”

 声が聞こえた。今のアスカより幾分か幼い声で、まるで断ち切る様な鋭い調子で。
(これってまさか、使徒!?)
 突如浮かんだ思いは確信をついている様に思えた。
 だから慌ててデュオを振り返ったのに、背後に映ったのはデュオの姿ではなくもう一人のアスカの姿。プラグスーツを身にまとった、自信ありげな微笑を浮かべる自分がそこにいた。

“そうやって、いつだって逃げようとしてる。だから肝心なことは何も分からないままなのよ。痛いことも辛いことも放り出して逃げて、それで強くなったって思ってる”

“嘘の自分を重ねても、肝心の自分の心はママを捜して泣いてるまんまなんだって気付きもしないで。成長してない心を、嘘の鎧で虚勢を張って強く見せてるだけじゃないの”

“弱虫”

“嘘つき”

 背後からも、眼前からも。
 二人のアスカは淡々と言葉を紡ぐ。絶対に誰にも言って欲しくなかったひどい言葉を、まるで選び抜いたみたいに正確に。
 心の奥でずっと恐れていた言葉を、次々と形にする……。
(あたし……夢を見てるの?)
 悪夢を。
 いつの間にかアスカは何もない場所に立っていた。気味の悪い緑と黄色と赤のマーブルの視野。飲み込まれそうになって嘔吐感を覚えた途端に周囲は暗転し、そうすれば尚一層自分を取り囲む幾人ものアスカの姿が強く浮かび上がる。

“リリーナ・ピースクラフトを見て恐くなったのは何故?”

“自分が惨めになった? 恐いこと、嫌なことから逃げてばかりで向き合おうともしなかった自分が”

“何かに堂々と立ち向かって行く人間が現れればすぐに自分の脆さが分かる。ほんとは”“自分でだって、自分を信じられずにいる癖に”

 ママをやめるのはやめて。そう叫んだのはずっと小さい頃。でもあの頃からもうとっくにそうだったのだ。アスカは自分が大嫌いだった。
 大嫌いな自分が嫌われることは容易に想像がついて、だから捨てられたくなくて何でもすると誓って、でもその前に失うものが初めから存在しなければ良いのだと気付いた。それは自分が強くなることにも絡がっていたから、とても良いことの様に思われたのだ。
 強ければ一人でも生きていける、何かに頼らなくても良いし何かに強く依存する必要もない。
 強くなって人に誇れる何かを捜して、そうして自分で自分を好きになれればもっと良い。そうしたらきっと……もっと、ずっと素敵なことが起こるかも知れないから。
 弱さから生まれた虚勢は遠い未来に訪れるかも知れない甘い夢を目指していた。だって一人ぼっちの世界でなんて生きていけない。だからもしかしたら、と希望を持って、でもすぐにその矛盾に気付く。希望を捨てて孤独になって強くなる筈の自分が、そうなることによって何かを得ることを“希望している”。
 何て矛盾だろう、ひどい。

“だからあんたは何も持ってないのよ”

 幼いアスカは上目遣いのままアスカを嘲笑う。

“自分でも分かってるんでしょ。何一つ出来ない、他人に頼りたくないって言ってる自分が一番、誰かに依存していること”

“助けてって言いたかったんでしょう、本当は。一人は嫌だって。それで逃げ込んで、いつまでもこの中にいるつもりなの?”

 いつまでも、この中に?
 言葉の不思議に気付いて、アスカは俯いていた顔を無理に起こす。この中。それはどこのことだろう。

“いつまでも気付かない”

“成長がないわね。また逆戻り”

「何なのよアンタ達……さっきから何言ってんのよ、訳分かんないことばっかり!」
「アスカ?」
 背後からいきなり腕を引かれてバランスを崩す。咄嗟にぞっとして振りほどいた。見なくても分かる、自分と同じ顔をした人間なんかに触れられたくない。
「いやっ! 触んないでよ、アンタなんかあたしじゃない、あたしのことなんて何も知らない癖にっ」
「どうしたんだよ、おい!」

“何も知らない? 違うわ、だって私は貴方だもの”

 陰が落ちた顔の中で、唇だけが浮かび上がって笑みを形作る。
 歪んだそれにアスカはぞっとして動きを止めた。

“私の心は貴方の心。恐くて自分で振り返ることも出来ない自分をこうして眺めているだけなんだから”






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