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「失楽園」

第一部....3
 ぶしゅん、と激しいくしゃみが口をついて、ヒカリは思わず真っ赤になって口もとを押さえ込んだ。
(いやだ、恥ずかしい)
 登校途中の車道脇に一人足を止めたヒカリは、ちらほらと周囲を見回す。
 勿論急ぎ足で行き交う少数の通行人は急がし気で、ヒカリのくしゃみなどには関心すら示さなかったのだけれど、
(やっぱり薄着だったかな、これだけじゃ。幾らコートでも春物じゃあね。アスカはどんな格好してくるのかしら)
 淡い水色のコートの袖から覗く母親のお古の手袋で、両頬を包み込む。
(それにしても寒すぎるわよね。天気予報でも云ってたけど、これってやっぱり異常気象だからなの、ただの)
「使徒……のせいじゃ、ないよね」
 アスカが何度も口にしていた為、すっかり覚えてしまった言葉。ちらりと漏らして溜め息をつきたくなる。
 もしこれが“使徒”の仕業だとすれば……勿論そんなことはないとは思うのだけれど……アスカ達はきっとまた、学校を休む羽目になるのだろう。
 最近では使徒の攻撃の間隔も狭まり、町への被害も大きくなっている。
 そうしてそれに比例して学校からは随分と生徒の姿が消えてしまった。
 がらんと開いた席はただでさえ寒くて、それなのにアスカ達まで休むと、本当に学校は色を失ってしまう。
 生徒を失った教室はまるで、人の姿の消えた町を彷彿とさせた。
 こうして一人二人と、少しずつ第3新東京市から人が消えていくのだろうか。そう思うとぞっとする。
 皆どこに消えていくんだろう。ここから出て行けば安全なの?
 以前ケンスケが話していたのを聞いたことがあった。第3新東京市以外にもあの変な“使徒”の攻撃で被害を受けた場所があるのだと。
 何処も安全じゃないんだ、本当は。
(……鈴原も、最近は元気ないみたいだし)
 ふう、と再び溜め息をついて、ヒカリは歩き出した。
 考え出すときりのないことだ、全部。
 何だかまるで世界が悪い方へ悪い方へと傾いて行くみたい、そんな言葉を心中でポツリともらして、ヒカリは歩みを早めた。
(あれ?)
 ……けれど。車道とは反対の、一段高い草むらに何気無く視線を映した途端、ヒカリはきょとんとして立ち止まってしまった。
(何か、いる?)
 白いものがごそごそと動いた気がした。
 緑の草むらの中で白だなんて、気になる目立ち方をする組み合わせだわ……最初はどこかのコンビニの袋ではないかとも思ったのだが、それにしては大きすぎる。
 ヒカリは思わず背伸びして草むらを覗き込んだ。
 その時、
「えっ」
 こちらから覗くより早く、反射的にバネの様に道路に降り立つ姿があった。
 その俊敏な動きに、咄嗟にヒカリは硬直してしまう。
 ぱたんと手から落ちる学生カバン。
 身軽に地面に着地したその人影は、黒い短髪を後ろにくくり付けたチャイナ姿の少年だった。白いのは彼の洋服の色だったのだ。
「あ、あなた」
 声を掛けようとすれば、切れ長の目にじろりと睨まれる。
 その鋭さに思わずたじろぐと、どうやらヒカリとそれ程年齢の変わらないその少年は、
「ここは……」
 と小さく呟いた。
「え、あ、はい」
「ここは、どの辺りになる。戦渦の様子はないが、サンクキングダムの領域に入ったか」
「……は?」
 少年の呟きに、ヒカリは間抜けな声を上げてしまった。
 今、サンクキングダム、とか何とか言ったのだろうか。良く聞き取れなかったのだけれど。
「は、じゃない。会話は日本語を使用している様だが、降下ポイントから考えても、この付近はデンマークになる筈だ。言葉が通じないのか?」
「い、いえ。通じてます。だけど……デンマークって」
 きょとんとするヒカリに、少年の表情は見る間に不機嫌になっていく。
「簡潔に答えろ、女。ここは何処かと尋ねている。まさか自分のいる場所も分からないと言うのではないだろうな」
 そりゃあんたもそうでしょうがと、女よばわりされてむっとしたヒカリはもう少しで突っ込んでしまうところだった。
 突然現れて「女」よばわりは幾ら何でもひどすぎるのではなかろうか。
「ちょっと貴方、誰だか知らないけど、私には洞木ヒカリって云う名前があるの。女なんて呼ばないでよ。失礼じゃないの」
「名前は聞いていない。場所を聞いたんだ」
 これにはさすがのヒカリもかちんときた。
 初対面の人間にこうまで云われて、平気でいられる奴がいたら連れてこい、モンである。
「あなたねえっ」
「あれ、イインチョーやないか。何しとんねん」
 猛烈に何か云い返してやろうと身を乗り出した途端、けれど聞き慣れた声に呼ばれてヒカリは振り返った。
 見れば車道脇の下り坂を、相変わらずのジャージ姿の鈴原トウジと、こちらは鞄をおでこで器用に支えながら、通信器らしきものをいじっている相田ケンスケがやって来る。
 独特の関西弁で声を掛けてきたのは勿論、鈴原の方だ。
「朝っぱらからどないしたんや。遅刻すんでぇ、めずらしい」
 近づく二人に、眼前の少年が何やら舌打ちして独り言を漏らす。
 耳に届いたその言葉にヒカリはぴくりと反応した。日本語ではない、それは流暢な外国語(日本語と英語でなかったこと位しか分からなかったが)だったのだ。
(凄い、外国語ペラペラなんだこの子。アスカみたい)
 セカンドインパクト以降狭まった国際間に、日本語は当然として、共通語である英語は日常的に使用される。
 だからヒカリだって英語なら話せるが、それ以外の外国語は全くと言って良い程自信がない。
 英語だって専門的な単語になると時々分からないのに、そう思うと自然ヒカリの瞳は尊敬の念を含んできらきらしてしまった。
「イインチョー、何やこいつ。朝からナンパかぁ?」
「誰なの、この人」
 トウジとケンスケの言葉に、少年が身を翻そうとした。
 のを、慌ててその腕にすがりついて留めるヒカリ。
 身体ごとくっついたヒカリに少年がつかのまその場でたたらを踏む。
「待って! 相田くん、鈴原、この人何かヘンなのよっ。ここがデンマークだとか何だとか言っちゃって、ねえっ」
 少年の顔にぎょっとした表情が浮かぶ。
 それでもヒカリは必死になってその腕にしがみついた。
 今いち状況についていきかねるトウジとケンスケだったが、まずトウジがヒカリの言葉に反応した。
「デンマークぅやと?」
「そうよ、今この人そう言ったもん!」
「何言うとんや、ここは日本の第3新東京市に決まっとるやないか」
「日本だと!? ここが日本だと言うのか?」
「ちょっと待てよトウジ。何か変だよ。ね、君どこの人? 日本の人じゃないの、その格好は……」
「ここが日本やなかったらどこや言うねん! デンマークなんかなあ、行ったこともないわ悔しいけど!」
「馬鹿な。降下ポイントを誤ったのか……」
「ちょっと人の話を聞きなさいよ、鈴原もアンタもっ!」
 ごん、とヒカリの鉄拳が飛ぶ。しかし、見事に決まる筈だったそれは、鈴原の頭にヒットした後少年によけられて空を切ってしまった。
 思わずがくんとよろめくヒカリに、少年は真剣な瞳で三人を眺める。
「どう言うことだ。モニターされた地形図を見たが、ここが日本の筈はない。第一、第3新東京市などと言う地名は聞いたこともないぞ。お前達は一体何者だ」
「……言うたら悪いけどな、この場ではお前が一番“何者やねん”言う感じやぞ」
「君、降下ポイントがどうとか言ったけど、一体どこから来たの? 場所間違ってるんならやっぱり外国から来た……とかだよねえ。ヘリか飛行機使った訳?」
「……それは」
 少年は何故か口ごもると、整った顔立ちを歪めて更に舌打ちする。
 その様子にトウジがむっとなった。
「何やねんその態度は! 大体なぁ、さっきから見とったら、人つかまえといて何やそのえらっそーなツラぁ!」
「ちょっと、トウジが喋るとややこしくなるから黙ってなよ。ええと、まずここの説明だけど……第3新東京市の地名を初めて聞いたって言ったよね。セカンドインパクト以降本来の東京が壊滅状態で、長野県に第二の東京市が建設されたって言うのは……知らない?正確に云うとここは神奈川県の箱根。第3新東京市は建設中だから、まだ一般市民はその周辺に暮らしてる状態だとか……分からないかな」
「セカンドインパクト?」
 ケンスケの丁寧な説明にも、少年は不思議そうに繰り返すばかり。
 その反応にヒカリ達もいぶかしげな表情になる。
「まさか、セカンドインパクトを知らない筈はないわよね? 外国の人だってアレを知らない筈は」
「少なくとも、俺の記憶にそんな名称はない。地球でも、コロニーでもな」
「コロニー?」
「……そうだ。第一、東京が壊滅状態などと言う話も遷都についても、俺の耳には入っていない。セカンドインパクト……まさか連合の攻撃の名称か?」
「れ、連合やとぉ?」
「さっきから何言ってるのよ、貴方。コロニーとか連合とか……訳分かんないわよ」
「連合の攻撃でもなければ、内乱か?」
「そやからなんーでそないなるんや。戦争やあるまいし。セカンドインパクト言うたら南極に隕石が落ちたちゅう、アレのことやろーが。そらまあアレのせいでちょっと前まではあちこちドンパチやっとったっちゅう話やけどな……お前ホンマに知らんのか?」
「知らん。各国の主要都市にまで被害を及ぼす規模の隕石が地球に落ちたなどとは、聞いたこともない」
「何か変だよ、これ」
 ぽつりとケンスケが呟きをもらす。
 自然六つの目がケンスケに集中した。
「君はセカンドインパクトを知らないって言う。僕達も、君の云うコロニーとか連合とかがどうだって言う話を理解出来ない。まるで話が噛み合わないよ」
「……そやからどないやっちゅーねん。しゃっしゃと話せや!」
「ちなみに聞くけど、今西暦何年?」
 急にふられて、少年はぴくりとまぶたを震わせる。
「西暦……暦か? A・C195年だが」
「アフターコロニー? 何よそれ……今は西暦二○一五年でしょ?」
 ヒカリが思わずそう呟いた途端。
 ずしん。
 と云う衝撃が、大地を襲った。




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