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「神殿」
- リディア・ノートンI
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- その日の夕食の後、私は約束通りミケェヌと並んで、エリッタ巫女副頭の部屋を訪れていた。
どうやらミケェヌは度々エリッタ巫女副頭の部屋に来ていたらしく、続いて私が部屋に入ると、エリッタは私だけを見て「珍しいこともあるもんだ」と含み笑いを洩らした。
「おやおや、リディア! お前、随分と落ち込んでいるようじゃないか。最初の元気はどうした?」
「……おかしいですか。あんなものを見た後で落ち込むことが」
「おかしくはないが、考えるだけ無駄なことを考えて落ち込むのは、時間の無駄だと思うだけだよ」
言って、エリッタは壁際にある卓子に椅子ごと向き直った。
「惨い光景を見て落ち込むのが当然なのは、人の世のことだからね。だけどここは違う。ここにはここの決まりがあって、それに従って物事が動いている」
「……それは、そうですが」
私はエリッタの背を睨んだ。
エリッタ巫女副頭の部屋は、雑然としているようで片付いている。
私達の部屋同様に大理石に囲まれた部屋ではあるが、壁に掛かった大きな毛織物のタペストリが、不思議なぬくもりを見せているのが印象的だ。
本棚に並んだ書物はいずれも年代を経た物で、太い皮の背表紙の文字は掠れて見えなくなっていた。
……こんな場所で、この人はいつから過ごしていたのだろう。
こんな化け物のいる神殿の片隅で。
「エリッタ様は、何故ここで過ごすことを決断されたのですか」
私の言葉を予想していなかったのか、エリッタは珍しく目を丸くしてこちらを振り返った。
ケロイドから逃れた綺麗な瞳が、真っ直ぐ私を見つめている。
「何だい、それは」
「巫女頭以下、常任巫女の方々は私達のような候補生とは違い、何十年もの時間をここで過ごされるのですよね。
けれどそれだけの信仰心がエリッタ様にあるとは到底思えません。それなのに何故、神殿を出ないのですか」
「言ってくれるね」
にやり、と笑って言った彼女の視線の向こうには、ミケェヌがいた。
ミケェヌは相変わらず無頓着に、ただ人形のようにそこに立っている。
「ここが気に入っているから、と言うのは答えにならないかい?」
「理解出来ません。気を許せば神に喰われる、こんな場所が気に入っているだなんて」
「それは所詮、外の人間の台詞だろうさ。私に言わせれば、ここはそう悪い所でもないよ」
信じられないその言葉に私が思わず目を見張ると、エリッタはひどく楽しそうに笑い、手にしていた羽根ペンを口元に寄せた。
「私だって、最初から神殿の役職についていた訳じゃない。もとはみんなと同じ候補生だったんだよ。確かお前達が入殿した日に話したことがあったね……私が候補生だった頃、神殿内部で火災が起こったのだと」
淡々と語る彼女の顔に、表情はない。
それなのに瞳だけが、激しく燃えるような激情を宿して輝いている。
「……ここの造りを見れば分かるだろうが、火災が起これば中は蒸し焼き状態になる。すぐに鎮火されたので神殿にそれほどの被害は出なかったが、生身の心を持つ候補生達はそうはいかなかった。迫り来る火と死への恐怖に自制を失い、次々と神に喰われたよ。つまり私はその中での唯一の生き残りと言う訳だ」
唯一の。
その言葉を改めて耳にした途端、静謐の廟の扉の前で感じたあの違和感が、再びむくむくと頭をもたげてきた。
そう、火傷だ。
火事の恐怖を乗り越えて生き延びたと言うエリッタ、しかし人がそうも簡単に炎の恐怖に打ち勝てるものなのだろうか。
顔半分を焼かれて、感情を爆発させずにいられるものだろうか……。
「神殿での奉仕期間を終え、無事生き残った私には高官の道が拓かれていた。しかしこの顔ではね。国の中枢で働く人間の中に、こんな醜い女が混じっていたのでは困るだろうと、自ら辞退して神殿に残ることを決めたのさ。
しかし我ながらなかなか良い判断をしたものだと思うよ。何しろ、これほど面白い場所はそうないからね。国の高官を生み出す施設、本来であれば尤も醜い欲望に溢れ返る場所だろうに、そうした感情の一切が死に繋がると言う。実は私の顔を焼いた火事の原因は、何者かの付け火にあったのだと言うが、」
ようやく、エリッタの顔に表情が戻った。
それは暗く歪んだ笑みだった。
「私は何も恨んじゃいない。何故って、それは無意味なことだからね。
本当は人に感情なんて不要なのさ。そりゃあ、あるにこしたことはないが、なくても生きてはいける。現に神殿を出た者は立派に国を支配しているだろう」
エリッタの視線の先には、再びミケェヌがいた。
綺麗な人形のような少女。
その姿が私の中でゆっくりと、火傷を負う以前のエリッタの姿と重なってゆく。
(この人達は……)
神殿に相応しい者がいるのだとすれば。
それはもしかしたら、こうした人間なのではないだろうか。
突如わき上がった恐怖を懸命に打ち消しながら、私は、ノートを開いて講義の質問を始めたミケェヌと、こちらにケロイドだけを見せて彼女に答えるエリッタの姿とを黙って眺めた。
たとえようもない嫌悪感が胸をじりじりと焦がすようだったが、その正体が何であるのかを、私は知らなかった。
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