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「神殿」

ミケェヌ・シュビタB
 スンガルが最初に取った宿を出立したのは、手紙を受け取った翌日のことだった。
 そのまま南へと向かったわたし達は、これまでに見たこともないような色々な場所を、その後もあてどなく旅し続けた。
 島内を移動してもマロジの冬景色は変わらない。
 凍えるような寒さに覆われたマロジ島を、スンガルは『冬の獅子に支配された島』と呼んだ。
 スンガルの住む島では、マロジのような冬に包まれた東の島々をそう呼んでいるらしい。
 行き交う人々の二倍は着膨れしている癖に、雪が舞い出すとすぐに宿から飛び出すわたしを、スンガルは良くからかった。
 子供は何で雪が好きなんだろうかね、と呆れられるたび、わたしはこう答えたものだ。
 寒いのは嫌い。でも寂しいのは嫌いじゃないのだ、と。
 寂しい、は、当時のわたしに理解出来る唯一の感情と言って良かった。
 どこまでも透き通った、がんらんどうで冷たい空気。
 自分をとりまく全てが消えて、一人で水辺に立つ感じ。
 そこに吹くのはとても心地よい澄み渡った綺麗な風で……それがわたしの思う『寂しい』であり、今のわたしを包む全てだった。
「余計なものは何も要らない。何もなくなって、綺麗に澄み渡れば良い」
 ……あれだけ豪遊していたスンガルも、旅を一年も続けるうちにすっかり散財したらしく、わたし達の旅は日を追うごとに貧しくなった。
 宿の格が下がり、料理の質が下がり、最後には宿屋を借りることも出来ずに野宿することが多くなった。
 それもその筈、どうやらスンガルに金を与えていたのは、彼が吐き捨てるようにその名を口にしたルゼットス王本人だったらしいのだ。
 けれどスンガルはわたしを手放すつもりも殺すつもりもなかったらしく、そうした日々は、実に二年以上も続いたのだった。
 旅に終止符が打たれたのは、わたし達がマロジの南の岬に一番近いオナビミ島へと渡った直後のことだ。
 マロジの港でしばらく働いて船代を稼いだわたし達は、オナビミに到着した後も、野宿と徒歩の旅を続けていた。
 雨の島と呼ばれるオナビミで、わたし達は増水する川辺の道を何日も進み、僅かな持ち金が尽きると、短期間の仕事を探しては新たな資金を得た。
 元々裕福な暮らしをしていた訳ではないと言うスンガルもさすがに疲労を隠せず、だからその日、背後に迫る不審な気配に気付いたのは、わたしの方が先だった。
「スンガル!」
 わたしは咄嗟に叫び、スンガルもまた同時に気付いて振り返った。
 暗がりの中でぎらりと刃が輝く。
 咄嗟に横に飛びすさったスンガルは、やがて夜闇の近付く川辺に立つ人影を見るなり、小さくうめき声を洩らした。
「……王に雇われたのか!」
 それはもしかしたら、スンガルの知人だったのかも知れない。
 けれどスンガルが言い終えるより早くにナイフは再び振りかぶられ、わたしは反射的に川沿いの草むらの中へと逃げ込んだ。
 事情は分からないが、命の危険だけは充分に感じ取られる。
 わたしは茂みに隠れたまま、もみ合うスンガルと見知らぬ男とを眺め続けた。
 ナイフの放つ光が幾度も闇に反射し、ひらめくその光の下で、男達は互いに譲ることなく殺し合いに興じていた。少なくとも、わたしにはそう見えた。
 やがて何度目かに閃いたナイフがスンガルの胸を切り裂くと、くぐもった声が雨の匂いと一緒にわたしのいる場所にまで運ばれてきた。
 ぽつぽつと、一度は止んだ筈の雨が降り出す中で、男はスンガルの胸に再びナイフを突き刺そうとした……しかし。
 降り出した雨がスンガルに勝機を与えた。
 踏み込んだ足をずるりと滑らせ、男の突き出したナイフが狙い目から逸れたのだ。
 スンガルはその機会を逃さなかった。
 咄嗟に男の利き腕を掴むと脇に挟み、ナイフを使えぬようにして男の顎を蹴り上げた。
 男は濡れた地面に倒れ伏し、その上にスンガルがのしかかる。
 ……やがて鈍い音がして、スンガルの荒い息遣い以外にはなにも聞こえなくなった。
「ミケェヌ、来い。もう大丈夫だ」
 名を呼ばれ、一瞬の間を置いてからわたしは、スンガルのもとに駆け寄った。
 スンガルは腹部を血に染めながら、それでも大地に腰を落として天を仰ぎ見ている。
 すぐ側にある男の死体を飛び越えて近寄ると、スンガルは剛胆な笑みを浮かべて頷いた。
「ルゼットス王の刺客だ。俺が予言の娘に似た子供を連れていると、あちらにも知れているんだろう。俺を探せば、一緒にいるお前を見つけて始末出来ると思ったのか」
「この人も黒髪の子供を殺す人なの?」
「そうだ。一人殺せば千二百モル貰えると聞き、喜んで志願した男さ。俺が連れて逃げていると言うので、お前の始末料も跳ね上がっているんだろう」
 わたしは男を振り返った。
「……スンガルを尾けてきたのね?」
「そうだ。しかし俺を探して来たのなら、共に島入りした仲間がどこかにいる筈なんだ。すぐにこの場を離れた方が良い……手を貸してくれ、ミケェヌ」
 わたしはじっとスンガルを見た。
 落ちていたナイフを拾って、もう一度顔を上げた。
「この人は、スンガルを、尾けてきたのね?」
「そうだ……ミケェヌ?」
 わたしはスンガルの胸にナイフを突き立てた。
 ざん、と鈍い抵抗があって、ナイフは思ったより深くには刺さらない。
 けれどスンガルは悲鳴を上げると、信じられないものを見る目つきでわたしを見上げた。
「……お、まえっ」
「だって、スンガルがいると追っ手がくるんでしょう?」
 スンガルの目は血走り、その口からは泡のような血が噴き出していた。
 それを真っ直ぐに見ながら、やはりこれまでお世話になったのだから御礼を言った方が良いだろうと考えて、わたしは有り難うとさようならだけを口にして、スンガルに背を向けた。
 さて、この後はどうしよう? とりあえず少しでも早く、この場を去った方が良いだろうが……草むらに隠れて移動し、村が見えたらそこに逃げ込めば大丈夫だろうか。
 そう考えながら一歩前に進んだわたしの足に、その時、不意に激痛が走った。
 反動で草むらに転がったわたしは、何が起こったのか分からぬまま自分の足を見下ろした……ぱっくりと縦に裂けている。
 振り返ると地面を這うようにして移動して来たスンガルの姿が、すぐ背後にまで迫っていた。
 わたしが突き刺したナイフを強引に胸から抜き取り、それでわたしの足に後ろから切りつけたらしい。
 熱を持った足は痛みを感じさせなかったが、これでは逃げる範囲や速度が狭ばってしまう。
 わたしはこれ以上の邪魔が入らないように、辺りを探って落ちていた石を拾うと、まだわたしを捕まえようともがくスンガルの頭にそれを叩き付けた。
 鈍い音がして、見開かれたスンガルの目がわたしを真っ直ぐ睨んでいた。
「……お、まえ、は」
 額から流れる赤い血。鮮血。
 けれどその時スンガルの顔に浮かんでいたのは、驚くほど陰惨な笑みだった。
「神殿へ、行け、ミケェヌ。お前なら、必ず、なれる。悪魔のような略奪者に、残酷な、暗殺者に、そして、新たな法をもたらす、王に。お前は、なれるぞ」
 雨足は次第に強くなっている。言葉を最後にぴくりとも動かなくなったスンガルを、わたしは振り返ろうともせずに地面を這った。
 やがて足の長い茂みの中に完全に身体を隠した頃、雨の中を駆けてくる幾つもの足音を、わたしは聞いた。
 それらは立ち止まって男の死体に息を呑むと、続いてスンガルの死体へとずんずん近付いて来た。
 足からの出血が思った以上に酷い。
 視界が白濁する中で、わたしは手に覚えた堅い感触に懸命にすがりついた。
 腕に体重を掛けてよじ登ると、そのまま身体を丸くして目を閉じる。
 途切れる意識の片隅で、身を預けたものがゆっくりと動き出し、相変わらず遠い場所では誰かの怒号が響いている気もしたのだが、それを最後にわたしの意識は完全に閉ざされてしまった。






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