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「神殿」

ミケェヌ・シュビタC
 ……ぱらぱらと、雨音が意識の奥に優しく響いてくる。
 わたしはふと、見慣れぬ部屋で目を覚ました。
 頭が重い。身体がだるい。鼻腔に覚えのない匂いがつく。
 何よりここは何処なのだろうか、とぼんやり視界に映る梁を眺めていると、今度は自分が横になっている寝台の脇に窓があることに気付いた。
 外に並ぶ緑の木々が、雨に歪んで映っている。
「気が付きましたか」
 声を掛けられて身を起こすと、足に重い痛みが走った。
 思わず顔をしかめたわたしに、寝台の横にいた男の人がゆっくり近付いてくる。
「慌てて起きなくても良いんですよ。別に私は君を誰かに引き渡そうだなんて、少しも思っていませんからね」
 もう一度寝台に頭を落としてしまったわたしに、からかうように言ったのは銀髪の男だった。
 さらさらと流れる長髪の間から、色素の薄い紫の双眸が覗いている。
 わたしはぼんやりとしたまま、浮かんできた問いを口にした。
「わたし、どうしてここに」
「この裏の川にね、小舟で流れついたんですよ。丁度二日ほど前になるかな……雨の中を呑気な釣り人がいるものだと思って見れば、」
 男は線の細い顔をほころばせて、わたしを指差した。
「君だった。追っ手がいるようだったので、すぐに家に運んで足の手当も済ませたのですよ。ああ、そうだ。お腹が空いたでしょう、何しろ二日も食べていないのですからね」
 呑気な声を聞きながら、そうかとわたしは納得した。
 意識を失う寸前に掴まった堅いもの、あれは小舟だったのだ。
 わたしが乗った反動で川に出て、そのまま流されたのだろう。
「ここには、あなた一人で住んでるんですか」
 そうですよ、と男は答えた。そのまま部屋を出て行ったかと思うと、すぐにスープの乗った盆を手に現れる。
 わたしを見て再びにこりと笑った。
「心配しないで下さい。君を連中に引き渡すつもりなら、この二日のうちにそうしています」
「あいつら、って……」
「君がここに流れ着いた日、川上で男が二人死んでいました。一人は道の真ん中で、一人は川縁の草むらの中で。君の連れと追っ手でしょう」
 確信を得たような言葉に、わたしは今度こそ身体を起こして男を見た。
「どうして」
「……どうしてでしょうね? スンガルが何故今更君を連れて逃げたのか、私にもさっぱり分かりませんよ」
 スープ皿が、こん、と寝台の脇の小机に置かれた。
 男は両手を寝台の端に置くと、間近からわたしの顔を覗き込んだ。
 淡い瞳の色には何の感情の動きもなく、彼の真意をまったく悟らせない。
「あなたも、わたしを殺す人なの?」
「いいえ。そりゃあ確かに、王宮で働いていたこともありますがね。でも言ったでしょう、私は君を引き渡すつもりなどないのだと。
 スンガルが裏切ったお陰で、王は君の存在を大変気にしていらっしゃる。恐らくスンガルのことだから、ルゼットス王が神殿に火を付けたことに腹を立てての行動でしょうが、とにかく君には災難でしたね」
「王の部下じゃないの?」
 尋ねながら、先程からやたらと鼻につく匂いがあることに気付いた。
 これは何の匂いだろう。
 男がスープを取りに行こうと扉を開けた時、一段と強く匂ったようだったが。
 まさか、隣の部屋に何かが置いてある?
「……あなたは、誰」
「私はキュルソー。十七の歳に静寂の神殿に入り、ルゼットス王より二年後に神殿を出た者です。王と私は歳が近く、おまけに神殿に入った歳も同じでしてね、事務官時代には良くお声を掛けて戴きましたよ。
 その彼が聖地画に描かれた女性を探してミネルバ各地に刺客を送ったと聞いたので、責任を感じている訳です」
 責任。
 言葉の意味を捉えかねて、わたしはすぐ目の前にあるキュルソーの顔を睨む。
 そうして、同じ問いを繰り返した。
「あなたは、誰」
 キュルソーは細く笑った。
 それからようやく顔を離して、スープ皿をわたしの膝の上に乗せ、食べるようにと促す。
 わたしがそれに素直に従うと、今度は興味深そうにスープを啜るわたしの口元を見つめた。
「これだけ話しても、君は簡単にスープを口にするんですね。疑わずに、まさかスープに毒が入っているとは思いもせずに」
「どうにかするなら、二日のうちにしていたんでしょう?」
「ああ、その通りですよ」
 再び、笑う。
 本当におかしそうに何度も背を揺らし、やがてキュルソーは、真剣な顔でこちらを見た。
「……先程の問いですがね。神殿に掛かる聖地画がいつ誰の手によって描かれるか、君は知っていますか。あの描き手には、神殿での奉仕を終えた候補生が一人だけ選ばれるのです。
 神の言葉を受けるべき優秀な人間が、と言う触れ込みですが、まあ絵心があれば儀式なんて簡単なものですからね。
 それで先代の王までは神殿出身の別の男が描いていたのですが、彼も年老い、その後を引き継いだのが私でした」
 キュルソーは立ち上がり、今しがた自分が出入りしたばかりの扉を大きく開いた。
 ぷん、と鼻をつく匂い。
 その匂いの正体をようやく思い出した途端、扉の向こうにずらりと並ぶキャンバスが視界に入った。
「つまり、あの聖地画を描いたのは私なのです」







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