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「神殿」

ミケェヌ・シュビタE
 毎日のように降り続く雨、その夜も屋根を叩く雨音の中で、わたしは眠りに就こうとしていた。
 突然の来訪者が訪れたのは、その時だった。
 玄関の開く音がして、わたしは瞬きをした。
 客がある時は事前にキュルソーがそう話す。それは一応追われる立場にあるわたしへの、彼の配慮だったのだろうが……とにかく今夜に限って言えば、こんな深夜に客が来ると聞いた覚えはない。
 わたしは自分にあてがわれた部屋(それは元々画材置き場だったのを改装した場所だった)の扉を薄く開けると、物音を立てないように慎重に居間を覗き込んだ。
 細くのびた居間からの光が部屋を横切り、眩しさに思わず目を細めたわたしは、すぐに部屋の隅に立つ雨に濡れた男の姿を認める。
 深刻そうな顔つきのキュルソーが正面に立って、男と言葉を交わしていた。
「お久しぶりですね。本当に貴方には驚かされる……まさか都よりはるばるこんな僻地にまで来られるとは」
 耳を澄ますと、キュルソーの苦笑混じりの声が聞こえた。
 どうやら相手は知己のようだ。
「今日はどう言った御用向きで?」
「お前が王宮を出て七年になる。以来お前は周りに人を寄せ付けず、このあばら屋で一人暮らしていたと言うが、ここ数年の間、使いの者が妙なことを言い始めた」
「……連れがいると?」
 キュルソーは、こちらに背を向けたまま笑ったようだった。
「それをわざわざ確認しに来たのですか? 貴方が、ご自身で」
「お前は私に離反の意を示したいのか。それとも、自らの描いた予言の絵をそれほどまでに実現させたいのか。どちらだ」
「私は自分の描いた絵のことなど知りませんよ。神託師に言われるままに描いたものだし、あれが私にもたらしたのは、身に余るほどの額の報酬でしかなかったのですからね。
 そもそも予言とは人の手でわざわざ実現させるものではない。そうなると言う未来があってこその予言なのです。神殿にある絵を燃やし、予言の娘を殺そうとしても、結末は変えられない」
 男は……ルゼットス王は、雨に濡れた金色の髪をかき上げながらキュルソーを見た。
 これが王なのかと、わたしは目の前にいる男を改めて凝視した。
 この数年間、ずっとその幻影に追われていたわたしにとって、それは余りにも唐突な出会いだった。
 初めて見る王の横顔は噂に違わず息を呑むほど美しく、恐ろしいほどだ。
 まるで一枚の絵画のように非のない美貌だったが、氷にも似た冷気をまとった彼の姿は、それだけでひどく凶々しく見える。
 触れれば切れる刃のような鋭さが、彼の端々から伺えるような気さえした。
「成程、それがお前の出した結論か」
 やがて、ルゼットス王は言った。切り捨てるような声だった。
 けれどその言葉にキュルソーも負けじと冷笑を浮かべると、
「貴方が私兵を連れてまで直接来られた目的は、私が共に暮らしていると言う子供を殺す為でしょうか。
 貴方は変わった。いつからそのように怯懦になられたのです。誇り高く、何者にも従わず、ありとあらゆる困難を乗り越えられたあの頃の自信は、果たしてどこに消えてしまったのでしょう」
「私を侮辱するのか」
「これを侮辱とお考えなら、貴方はそのていどの人間でしかないのです」
 痛烈なキュルソーの言葉に、王は苦々しく舌打ちした。
「怯懦はお前の方だろう。王宮から逃げ出し、現実から逃げ出した。腐ったこの国の人柱になる決意ごと投げ出して、最後には私の手から逃げ出したのだからな。お前に私を見下す権利はない」
「……私は、逃げ出した訳ではありません」
 キュルソーは言った。独白のような呟きだった。
「逃げ出した訳ではないのです、王よ。ですが貴方には生涯分かりますまい」
 その後に続いたのは、重い沈黙だった。
 わたしは静かに扉から離れると、物音を立てないように簡単に身支度を整える。
 キュルソーは、王が私兵を連れていると言った。
 あれは勿論、部屋にいるわたしに聞かせる為に言ったのだ。
 すぐにも飛び出せるようにして窓の側に控えていると、やがて小さく扉の閉じる音がした。
 王が出て行ったのだ、と気付いたのはそれからしばらくの後、外に控えていた大勢の気配が遠ざかった後のことだった。
 わたしはそっと居間に出た。
 キュルソーが食卓に座って俯いている。
 近付くと、彼は青ざめた顔をわたしに向けてきた。
「……ミケェヌ。君に一つだけ、聞きたいことがあります」
「なに?」
 か細い声に、より身体を近づけると、真っ赤に染まった胸元が見えた。
 ナイフが一本、彼の胸に突き刺さっている。
「あの日、スンガルを殺したのは君ですか」
 静かなキュルソーの問いに、わたしは頷いた。
 果たして本当に、石で頭を殴ったことと、ナイフを胸に突き刺したことが致命傷になったのかは、分からない。
 けれどわたしはあの時、スンガルを殺すことに躊躇しなかった。殺すつもりでナイフを突き立て、石を振り上げたのだ。
 だから、頷いた。
 するとキュルソーはかすかに微笑み、
「それなら、大丈夫ですね。きっと……大丈夫だ。ミケェヌ、君は今すぐに小屋を出なさい。王はここに、君がいることを確信している。すぐに手を打つでしょう……現に、外をご覧なさい。見張りが立っている筈です。外からは逃げられませんから、」
 苦しそうに身を起こして、キュルソーは部屋の隅に置いてあった水瓶を指差した。
「それを横にずらして、そう、真下に隠し扉があるでしょう。そこから地下に続く道は、この先にある森の中に繋がっています。
 彼らは、君が必ず本島に向かう筈だと……考えて、います。本島に向かうマイナ港には、見張りが立つでしょう、から……別の港から、島を出るのですよ」
「だから自分で胸を刺したの? どうせもうすぐ王に殺されるから」
 わたしは言った。
 次第に息が乱れ始めたキュルソーの落ち着きと、王が出て行った時の様子を考えても、彼の胸にあるナイフが自らの手によるものだということは明らかだった。
「どうして逃げずに死を選んだの。こんな所に脱出口があるのは、王に命を狙われる可能性と、その時に逃げ延びる算段を立てていたからでしょう。なのに、どうして?」
「……静寂の神殿の試練を乗り越えた者は、誰よりも、強靭な心と鋼の理性を持つ……と言う。けれど、神官王を歓迎した民衆の中に、果たして、気付いた者があったでしょうか……彼らのいずれもが、肝心なものを、あの場所で……失って、いるのだ、と」
 返ってきたキュルソーの要領を得ない言葉に、わたしは思わず首を傾げた。
 少しずつ死を間近にしている彼が、何故、今更そんな話をするのかが理解出来ない。
「ミネルバは、戦乱の歴史を持つ、国です。様々な王がたったが、そのいずれもが、無惨な終焉を迎えてしまった。そうして、今の神官王の時代が……到来したのです……。
 ルゼットス王もまた、王座を前にした当初は、若々しい、希望に満ち溢れていた、の、ですよ。全てに恵まれたはずの自分が、唯一、失っていたものの正体に、気付くまでは」
「失った、もの」
「私達は『創り出す力』を、無くしていた、の、です」
 何とか息を整えながら、キュルソーが言った。
「神殿での毎日は、与えられる日々、でした。そして、自らの心を切り捨てる……日々でもあった、のです。
 私達は、継続させることは、出来る。与えられるものを、一つの取りこぼしもなく吸収する、ことも。
 ですが、創り出すことは……出来ない、のです。王としての資質、ルゼットス王が思い描いた、理想の王に近付く為に、絶対に……不可欠な、もの。それが、あの絶望的な日々を乗り越えた私達には、欠けていた。
 王は苦悩し、気付きました。何故、神官王の時代が……平穏であったのかを。私達に求められていたのは、ただ、継続させること、だったのです。変革ではない、そこにあるものを、守り続けるだけの日々だった。
 ミネルバを終焉に導いた、歴代の王達には……野心が、ありました。そして、それを叶えるだけの、想像力と、行動力があった。だから……ルゼットス王は、絶望したのです」
 わたしは思い出していた。
 キュルソーが毎日のように絵筆を取って描き続けていた物。
 そのおおよそはわたし達の近辺にあるものばかりだった。
 川、小屋、雨の景色、深い緑の庭。
「絵を描くのは、創り出すことじゃないの?」
「……そう、ですね。だから、私は王宮を出たのです、よ。神殿で、失ったものを、取り戻す為に、ここで絵を描き続けた。
 そして、ルゼットス王には、惨い幻想を押しつけたのです。彼の力が、すべてを打ち砕き……必ずや、この国に変革をもたらすであろう、と言う幻想を」
 キュルソーの息は、一言喋るごとに乱れていく。
 それでも、彼は言葉を続けた。
「ミケェヌ。ルゼットス王は、自らの死を恐れて、予言の少女を殺そうとした……訳では、ないのですよ。彼は、絵に描かれた少女に、嫉妬したのです。
 神殿での日々を生き抜き、ようやく辿りついた王座で、何も生み出すことなく消えて行く、自らと……やがては、何かを成し遂げるであろう少女の姿とを、比べて。
 それが現実だとは、どうしても、信じたくなかったのですよ」
 キュルソーは、再び息を吐いた。絶望に彩られた深い吐息だった。
 わたしは束の間、目の前にいる人がキュルソーではなくなったような錯覚を覚えて眉をひそめたが、瞬きして見ると、それはやはりキュルソーだった。
 彼の唇が再び動き掛けた時、外で不気味な音が連続した。
 とん、とん。
 その音と共に窓の外にぱっと赤い花が咲く。
 ……火矢だ。
 外を覗くと、外に並んだルゼットス王の私兵達が弓矢を手に小屋を取り囲んでいた。
「急ぎなさい……ミケェヌ。君は、逃げて……」
 最後の言葉は声にならなかった。ひゅう、と掠れた息を洩らすキュルソーに、わたしは再び近付き、卓上に手を付く。
 そうして、言った。
「ねえキュルソー、わたしは神殿に行くことにする。キュルソーが言うように、スンガルが望んだように、神殿に行って聖地画の予言を本当にしてあげても良いよ。
 わたしには、そう言うのがないから。そんなふうに思い詰めるものがないから、スンガルやキュルソーの気持ちを譲って貰うのは別に構わないよ」
 わたしがもう少し大人だったなら、それを憧れと呼んだかも知れない。
 皆の持つ激情が、わたしは好きだった。
 わたしにはない激しい感情。
 スンガルが死の底で見せた瞳の色。
 キュルソーが抱いていた深い思い。
 だからわたしは笑った。笑って言った。
「もう大丈夫だから、安心してね」
 キュルソーはようやく微笑んだ。
 それはいつものキュルソーそのままの笑みだった。
 火が回って小屋を焦がす匂いと熱が充満する中、わたしはキュルソーの胸からナイフを抜き取ると、それで彼の首をすっぱりと切り裂いた。







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