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「神殿」

リディア・ノートンA
 光に閉ざされたその中は、まるで巨大な蛇の体内のように細長く、湿っぽい。
 入口に二つ並んだ松明の炎がちろちろ動いて私達を呑み込もうとする舌なら、その炎に照らされて揺れる柱の影は脈打つ血管だ。
 たとえ引きちぎられたのだとしても、絶え間なく揺れ動くそれが血を流すことはないのだが。
 ……人の気配の密集した背後からは、時折恐怖に乱れた息づかいが聞こえていた。彼女たちのいずれもまた、私と同じものを見、同様の幻に脅かされているのに違いない。
 けれど私の中に生まれた幻影はむしろ、私を安堵させていた。
 何を恐れる必要があるだろう、これらが真実私達を呑み込もうとする舌なら、むしろ幸運なのだ。
 生物の胎内に戻った私達は、やがて魂に戻ることができる。
 全てを失って得る死が、もしそうしたものだと言うのなら、誰も命の終わりを恐れはしないだろう……松明に挟まれたあの扉の向こうに続く巨大な神殿が、そんな安らかな結末を私達に用意してくれる筈がなかったが。

 ……私は昔から、早熟で聡明な子供だと言われていた。

 早くに亡くなった母に代わって私を育ててくれた祖母も、私が望むままに学術書を手に入れては、

『おまえは本当に、教え甲斐のある生徒だよ。息をするように、学ぶことを身に付けている。知識を得ることの贅沢さと喜びとを知っている子だ』

 そう言って、占術を教える傍ら、自らの持ちうる限りの知識をも私に与えてくれた。
 小さく貧しい故郷の村、それこそ少し歩けば村の端から端まですぐにたどり着くような場所で、私の才が埋もれることを惜しんでくれた祖母……宗教的な問題から、国では認可されていなかった占師の職にあった彼女は、ある時こんな話を聞かせてくれた。

『ミネルバの次の王は女だ。この大陸にはありとあらゆる人間が王座についたが、それでも女王即位など過去に一度も例がない。これを機に、ミネルバは新たな時代を迎えることになるだろうよ』

 王は静寂の神殿の出身者の中から選出される。
 その占術の結果に思いを馳せ、果たしてどんな人物がと思っていた頃の私は、まさか自分がこの神殿に入殿することになろうとは露とも思っていなかった。
 ……けれど、その実、私には神殿の試練に打ち勝つ自信が十分にある。
 私をここに送り込んだ者達の意図は明らかだが、これ以上、祖母を殺した彼らの思い通りにはさせない、させたくないと言う思いも強かった。
 少なくとも、今の私は、他の候補者達に負ける気がしないのだから。
「神殿には恐ろしい化け物がいるのでしょう? 私、死にたくない……!」
 その証拠に、私以外の『集められた新しい巫女達』は、案内役の巫女頭が現れるまでのたった数分の間にも、未知への恐怖に怯えてさえずり合っている。
 薄暗い石の広間、静寂の神殿へと続く待合室の中……石造りの部屋には窓一つなく、ただ二本の松明の明かりと、壁に並べられた蝋燭の炎だけが、不気味な陰影を刻む壁の彫刻や青白い少女達の顔を照らし出している。
 こんな場所では、確かに落ち着いて入殿を待つ気にはなれまい。
「お父さまが悪いのよ。あんなくだらないことにお金を掛けて、私を入殿させるなんて!私、私、どうしてこんな場所に」
「黙りなさい。今更慌てたって仕方がないでしょう!」
「心を落ち着かせることよ。静寂の神殿におわす神の御心に添うように」
「何言ってるの、そんなの嫌! 貴方達、毎年どれだけの人間が神殿の中で命を落とすのか、知らないの? 私は知っているわ。二年前、幼なじみが巫女に選定された時には、その数日後に紫の栞が届いたんだから!」
 ひときわ荒い口調で叫び続ける少女の言葉に、私は僅かに顔を上げた。
 淡い金色の髪を綺麗に編み上げた少女。
 品の良さそうな顔立ちが、裕福な家庭に生まれたことを思わせた。
「紫の栞よ……分かる? 死亡通知! 死んだの、数日後にね!」
 私は少女から視線をそらす。
 愚かで可哀想な少女。彼女は多分、数日ももたない。
 ……オラクシャーン大陸の南、孤島の織りなすミネルバ教国の外れに、静寂の神殿はある。
 希望と絶望を生み出す聖地、羨望と恐怖とをまとった神殿。
 古びた石造りの神殿は、常に周囲から対照的な評価を戴きながら、ミネルバ教国の保護の下、今尚有史以前からの契約に従って機能している聖域である。
 神殿には二年ごとに数十名の巫女・神官候補が集められ、入殿の儀式の後に神殿での生活を強いられる。
 この教育課程は早くて数日、長くもって一年程度で終了し、失格した者には死が、儀式を乗り越えた者には栄光の未来が約束されているのだ。
 入殿する者には二通りの理由があったが、私は特に『審査』の為にこれを命じられた。
 審査。
 罪を犯した者が、神の審議を仰ぐ為に神殿への奉仕を命じられることである。
 奉仕。
 けれどそれは名ばかりで、実際には、これは「処罰」なのだ。何しろ神殿に入った者のおおよそが、生きて外には出られないのだから。
 とは言え、中では拷問が行われている訳でも、体力的に不可能な労働を強いられている訳でもない。
 私のような審査を理由にして入殿した者も、結果的にはもう一つの理由……自ら名乗りを上げて入殿した者達同様、教育・儀式を繰り返す生活を送るだけなのだ。
 そして、その「生活」こそが、死と隣り合わせの恐ろしい罰なのである。
 恐らくは今泣き叫んでいる少女も、私同様、入殿を強要された者なのだろう。
 けれどことここに至ってまだあの状態では、確かに入殿など、自殺行為かも知れない。
(感情の乱れは神の怒りをかってしまう)
 ミネルバに生まれた以上、彼女とて静寂の神殿の名の意味を知らぬ訳ではないだろうに。
 僅かな憐憫の情を持ってもう一度少女に視線を戻そうとした私は、その時、石の扉を開けて入ってきた長身の人影に気付いて、慌てて姿勢をただした。
 ざわめきがやむ。入ってきたのは数名の官吏と、彼らに庇われるようにして進む二人の女性だった。
 静寂の神殿には五人の常任巫女が住んでいると聞くから、恐らくはその内の二人なのだろう。
「皆さん、」
 年長らしき女性が、深く被ったベールを脱いで優しく語りかけてきた。
 朗々とした声は驚くほど低く石の広間に響き、見ると彼女に連れ添うように入ってきたもう一人の女性は、僅かに俯いたまま、一段と濃いベールの影に顔を隠していた。
「皆さんは本日より静寂の神殿の巫女として、数ある試練を乗り越えてゆかねばなりません。清く、静まった水面のような氷の心を保ちなさい。それだけが唯一皆さんの持ち得る武器なのです」
 深い皺を刻んだ女性の顔は白く、その表情は少しも変わることなく私達を見下ろしている。
 やがて背後に立っていたもう一人の女性が呼ばれて前に進み出で、そっとベールを外した。
 途端に、あらわになる顔。
 周りから悲鳴が上がった。
 ベールの下に隠されていた女性の顔の半分は、焼けただれ、赤くケロイドに弛んでいたのである。
 ざわめく少女達をゆるやかに見渡すと、女性はわずかに微笑み、口を開いた。
「私が巫女副頭だ。フィオイア・エリッタと言う名だが、別段覚える必要はない。名を呼ぶ機会があればフィオとでも何でも呼ぶと良いが、入殿すれば名前どころではなくなるだろうからね。まあ、それだけの余裕があるなら大したもの、とだけ言っておこう。
 神殿でのおおよその規則については前日の集会で耳にした筈だろうから、今更説明は必要ないだろう?」
 必死に目を背けようとする少女達をよそに、私は巫女副頭の顔をじっと見つめていた。
 ケロイドにひきつる顔の横には、ほっそりとした美貌が覗いている。
 背筋がぞっとする程清楚で美しく、天使のような半顔。
 それはまるで、天性の芸術家の作った彫刻のように見えた
「私のこの顔程度のことで心を乱していたのでは、神殿での暮らしなど耐えられまいよ。何しろ心を磨く為に、地獄を見て暮らすんだからね。まあこの場に集まった者の中に、覚悟のない人間などいる筈もないが」
 しん、とした。
 それは二人が姿を現した時に広がった沈黙とは違い、まるでその場にいる全員の心を凍らせるような、地の底からにじみ出たような静寂だった。
 やがてその重い沈黙を破るように「言葉を選びなさい」と言う小さな叱咤の言葉が洩れる。
 巫女副頭の横にいた、巫女頭の声だった。
「良いですか、皆さん。確かにこの中は地獄かも知れません。けれど試練に打ち勝ち、神殿を後にした者が存在することもまた、事実なのです。
 彼らは国の中枢にまで上り詰め、英知と栄光とを極めました。希望を捨てることはありません。ただこの一年の間だけ、心を鉄にして『希望を忘れて』おれば良いのです。
 試練に負けぬよう、頑張って下さい」
 慰めであろうと思われたその言葉は、残念ながら当人の思惑ほど少女達の役には立たなかったようだ。
 巫女頭の言葉が終わると同時に、先程わめいていた少女が失神した。
 こうして私は、静寂の神殿へと足を踏み入れたのだった。







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