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「神殿」

リディア・ノートンB
 我々の住む大陸を支配する影の力、静寂の神殿。
 その成り立ちを語る為にはまず、過去数千年もの時間を遡らなければならない。



 遠い昔、と人々は伝える。
 遥か遠い昔。巨大な大陸に神が住んでいた。
 誠実さと公正さ、清らかさと穏やかさを好むこの神は、身の内に潜む強大な力の為に人々に恐れられていた。
 けれど神が備えたものはそれだけではなかったのだ。
 溢れる知識の泉と、誰もが目を背ける程におぞましい姿。異なるふたつのそれらは、神のもつ強大な力以上に呪われた『諸刃の剣』であった。
 神のもつ知識は人々に恩恵をもたらすものであったが、それ以上に、強大な力と、太陽に晒されるその醜い姿とに、人々は恐れを抱いた。
 だが、神もまた、人々の拒絶と怯えた視線を厭うたのだろう。人里離れた僻地に逃れた神は、強大な力を身の内深くに沈めるばかりでなく、姿まで隠そうとした。
 人々は神の嘆きと苦しみを悟り、巨大な神殿を建立することに決めた。自らの姿を悲しみ、人間達の視線を厭う神が隠れ住むことができるように、まるで迷路のような美しい神殿を作り上げたのだ。
 やがて神はこれらの好意に深く感謝し、神殿の建立に尽力した者達に一つの約束を残す。

 私はこれより私の知る全ての知識をお前達に授けよう。
 しかしお前達は、自らがその知識を授かるに値すべき存在であることを、私に示さねばならない。従って知識を欲する者は、神殿にて審判を受ける義務を負うことになるであろう、と。

 神の言葉を聞いた人々は、先を競って神殿に出向いた。
 そうした人々に、神は姿を現すことなく知恵を与え続け、人々の暮らしを向上させていった。
 やがて人間達は、神の知恵をなくしては暮らせないほどになった。神が与えるそれらの知識は、不要なまでの文化を人々に与えてしまったのである。
 ……人の価値を問う神の審査とは、常に三つの問答からなるのだと言う。
 その内容は人によって異なるが、神はこの問答の際、答えではなくその人間の気配を探るのだ。
 知識はひとつ間違えば大変な災厄を人々に与えてしまう。神は恐らく、それを恐れたのではないだろうか。
 けれど神話時代は長くは続かなかった。
 豊かな文明は次第に人々の心を蝕み、醜く歪んだ心は、己が為の知識を求めるようになったのである。
 神は恐れ、そして憤った。
 審査は次第に厳しくなり、知識を授かる人間の数は激減したが、それでもなお神に謁見を求める者の数は絶えず……神殿を浸食する醜い感情の渦に、神はいよいよ自制を失った。

 結果、それが起こったのだ。

 神殿に住む姿のない神は、激しく醜い感情の波を感じると、人を喰らうのである。

 多くの人間が神に喰われるのと、神殿から人の姿が消えるのは時間の問題だった。
 けれどそこに潜む英知はやはり人々の生活の為に必要なものであり、神殿の存在を無視して過ごすことなど今更出来ようはずもない。
 人々はなるべく心に穢れのない人間を毎年選出し、神殿に向かわせることにした。選定は厳しくなされたが、神殿に入った人間の過半数が、生きて再び戻ることはなかった。
 贄とも呼べるその行為はやがて儀式化し、様々な規則に守られながらも延々と繰り返された。
 人がもはや神の知恵を必要としなくなり、神が知恵を授けぬようになった後も、なお。
 こうして一時の繁盛期を終えて静寂に包まれた神殿は『静寂の神殿』と呼ばれるようになり、神の犠牲となることを恐れながらも、多くの者がこれに入殿することになった。
 ……この神話は名を変え形を変えて、様々な地方に伝えられてきたが。
 人喰い神の住む静寂の神殿は今尚存在し、犠牲者を生み出し続けているのである。


 * * *


 現在のミネルバ教国の王の名はルゼットス。
 13年前、静寂の神殿に神官候補として入殿し、当時四十名いた候補生達の中での唯一の生存者として、神殿を後にした人物だ。
 候補生の多くは神の贄として命を落とし、時期によっては全滅することも希ではない。
 故に氷の美貌を持つルゼットス王は、神殿の試練を乗り越えることのできた平常心を例として、凍てついた心をその容姿にまで映し出した美王なのだと噂されていた。
 けれど、彼が初代神官王以来の名君と称されるまでになったのは、勿論その美貌を讃えられた為ばかりではない。
 即位直後にミネルバを脅かした他大陸の攻撃をかわし、大きな戦争の火種を摘み取った功績があるからこその支持なのだ。
 その彼もまた、十年以上も昔、私達と同じようにこの大きな神殿の門をくぐったのだ……そう思うと、私の胸の奥に、何やら不思議な感慨のようなものが浮かんできた。
 果たしてこの中で、王は何を見たのだろう。
 見上げる程に高い門をくぐりながら、私の中に浮かんでくるのはそんなぼんやりとした思いでしかない。
 神殿の入口は東西に二つあり、一方が神官候補の男の子達が入殿する『使徒の門』、もう一方が巫女候補の女子達が入殿する『信者の門』と呼ばれている。
 だから正確に言うと私達の目にする門は、ルゼットス王のくぐったそれとは異なっている。
 私が女である以上、王がくぐった門を見ることは永遠にないのだ。
 女子と男子の入殿は交互に行われ、今年のように巫女候補の選出された年は、神官候補の選出は行われない、と言うのが神殿の決まりになっている。
 男女を徹底的に分けて入殿・教育させる理由は言うまでもなく、神に身を捧げる者達の誓いにあるのだろうが……少なくとも神殿で過ごす間は、身に穢れを負ってはならないのだ。
 ……こんなおぞましい神殿の内部で過ごす人間に、そうした余裕があるものどうかは知れないけれど。
 それでも、こうした本来の聖職者に対する規律が、静寂の神殿には幾つか存在する。
 信者の門の入口には巨大な浴槽があつらえられており、私達新しい巫女候補はそこで身を清め、用意された巫女装束を纏って神殿に入ることになっていた。
 俗世で纏っていた衣類は浴槽脇にある長方形の大理石の箱にまとめて入れて、沐浴を終えた巫女候補の少女達から順に、新たな装束を纏っていく。  つまり、神殿内部には何も持ち込めないことになっているのだ。
 それにならって浴槽につかると、私は震える吐息をそっと洩らした。
 心が震えるのは恐怖や怒りの為ではない。これから私に課せられる幾つもの試練に対する興奮が、そうさせるのである。
 目の前に立ちはだかる巨大な壁を乗り越えなければ、私に未来はないのだから。
 沐浴を終えて装束を取りに上がった私は、少し離れた場所に例の少女の姿を認めて目を細めた。
 先程失神していた少女だ。
 周りの少女達が覚悟を決めたと見えて、大人しく儀式を済ませていくのに対し、彼女はもはや恐怖のあまり口を開くことさえ出来ずにがちがちと震えている。
 白く光る背中に、生まれついてのものだろうか、小さな痣が見えた。
 ……入殿の儀式を終えると、浴槽の間の柱の外で待っていた巫女頭達が候補生達を呼び集め、先頭に立って神殿の奥へと歩き始めた。
 死刑囚のような足どりで長く怠惰な階段を下り、回廊を突き進むと、左右に見える庭の緑が夕暮れの光を受けて橙色に輝いている。
 手入れされた植物の中に花の影はなく、それさえもが沈黙を守ってそこに佇んでいるようだった。
 回廊を抜けると新たな部屋が続いた。そこは幾本もの柱に支えられた広間だった。
 光の加減か白々と映える大理石の内装がますます沈黙を重くさせたが、柱に施された精巧な装飾模様はほとんど芸術と言って良い。
 床に何の装飾もないのが不思議な程に、壁や天井は鍾乳石細工やモコルトと呼ばれる大陸の古代紋様に彩られていた。
 神殿と入口との境界線の説明は、どうやら一切ないらしい。つまり門をくぐった時点で、候補生達は自らの感情を抑えなくてはならないのだ。
 お陰で、自分がいつから神殿の中に足を踏み入れていたのかが分からないが、広間の中央にある祭壇を見る限り、ここが既に『静寂の神殿』の中であることは確かだろう。
「神殿では各々個室が用意されています。寝台と卓子と椅子がある程度ですが、必要最低限の物は揃っていますから安心なさい。
 それに加えて必要と思われる物があれば、いつでも補佐の……私の後ろにいる者達に願い出ると良いでしょう。すぐに用意してくれます」
 言いながら巫女頭が指差したのは、彼女の背後に立つ数名の女性だった。いずれも深くベールをかぶり、俯いている。
「貴方達には午前中に広間での講義を、午後からは神殿内部の清掃・奉仕活動をして貰います。夕刻からは自由時間になりますが、朝昼夕の食事は必ず全員で取ること、それが決まりです。
 そうですね……貴方達がまず覚えなければならないのは、この広間の場所と、」
 巫女候補達の前で説明を始めた巫女頭は、そう言ってぐるりと周りを見渡した。
「広間の外にある私達の部屋、それから貴方達の部屋ですね。後は清掃の時刻などにおいおい覚えて行けば良いでしょう。
 ああ、それからもう一つ。この神殿には入室を禁じられた静謐の廟、と呼ばれる部屋があります。神のおわす神聖なる部屋ですから、注意なさい。
 側に近付くことを禁じられている為に案内も出来ませんが、扉に緑の模様が細かに描かれた場所があれば用心することです。それこそが静謐の廟の入口ですから」
 神殿内部の造りはそれほど複雑ではなく、私達に用意された部屋も、横並びに真っ直ぐ続く単調なものだった。
 廊下を挟んだ真向かいにはただひたすら白い大理石の壁が続き、それが天井と床にまで広がっている。他の部屋や廊下と比べると驚くほど殺風景だ。
 その後、特に決まりもなく、単に歩いて来た順に部屋を割り振られた。
 最後に本日の夕食の時刻と、翌朝より最初の講義が広間で行われる旨の説明が続いて、巫女頭の話は終わったのだった。







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