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「感謝祭(カーニバル)」
- 【序】
- 早朝。霧に包まれたシニョンの巨大水路を、黒い影がゆらゆらと流れていた。
影は水路の上に掛かる橋の下を通り、家々の合間を通り、約三十ガズ程の距離を運ばれていく。
やがてがたん、と水路脇の壁に引っかかると、人形の様に白く色を失った顔が水面に浮かんだ。淡い金色の髪がさらさらと流れに揺れている。
「あの男のやりそうなことですよ」
……水路の両脇に並ぶ建物の一つ、煉瓦の窓から霧にかすむ眼下の光景を眺めていた男は、薄く開いた硝子窓を閉めながらため息をついた。
「本当に困ったものです。あれでは我々の品位まで疑われてしまう」
「マイヨがシニョン入りするのは感謝祭の二日目だ。それまでに浮足立った連中を一人でも始末すべきだと、俺は忠告した筈だぞ」
「こちらにまで飛び火すると? 安心なさい、我々の正体が知れている訳ではないし、こちらも手は打っているのですから」
窓際から卓子に戻った男は、不満そうに傷の走る目元を拳で叩く相手に婉然と微笑み掛けた。
整った顔立ちに銀の長い髪をした彼は、向かい合う不満顔の男とは対照的な、細身の美男子である。
「感謝祭まであと十日、舞台の幕は既に上がり、今頃は水面下での刺客争いが始まっている筈です。我々はただ待てば良いのですよ。こうしてゆっくり支度を整えながら、機会が訪れるその時をね」
……富豪王として名高いミネルバ過渡期王朝七代国王レイドルトが、年に一度行われる感謝祭の為だけに建設を命じたと言う水園都市・シニョン。
大陸の歴史上最大の人工都市と呼ばれるそこは、首都からおよそ三日程離れた位置にある巨大な湖上に築かれていた。
水園都市の名は勿論、その特異な外観に由来する。
そもそもが観光地である為、シニョンの居住区域は極端に少ない。その上、湖の底に築かれた土台の上に建ち並ぶ家々は全て離れ小島の様に湖に隔てられ、閑散としているのだった。
唯一の例外が感謝祭の行われる霜月で、その頃になるとシニョンは一転、大勢の観光客で賑わう一大都市へと転身するのである。
現在のミネルバでは宗教・信仰制限が厳しい為、シニョンの感謝祭も厳密には神に捧げられた祭典ではなく、地上をあまねく統治する国王を対象としたものだ。
人々は色とりどりの光に溢れる水路をボートで渡り、岸辺に集う大勢の観光局達の間に花を振り撒いて祭りを楽しむ。
国王への賛美と感謝の歓声は夜間に入っても途切れることなく、感謝祭の行われる七日の間ずっと、外灯に照らされたシニョンの町を彩るのだ。
けれどその年のシニョンの町には、例年にない奇妙な緊迫が漂っていた。
ミネルバの右宰相マイヨが、国王の代理としてシニョン入りすることが決まった為である。
マイヨを憎む人間は多い。三名居るミケェヌ女王の側近の中でも、彼は唯一静寂の神殿出身でない異例の人材だった。
聡明なミケェヌ女王が何故彼を近づけたのかは分からないが、優秀な頭脳に相反する子供じみた浅慮なふるまい、そして気まぐれに振る舞う身勝手さが起こした数々の事件の為に、これまで多くの人間が命を失ってきたのだ。
まるで即位当時『血の女帝』と呼ばれていたミケェヌの、そのおぞましい性を吸い取ったかの様に、彼はあらゆる人々を虐げ憎しみの種を撒き続けた。
その彼が、シニョンに来る。
……祭りの準備で次第に華やぎ出すシニョンの町で、観光客に紛れて厳しい門番の目をくぐり抜けた旅人達が、晴れ渡る初夏の陽光の作る陰影の中に次々と姿を消してゆく。
彼らの目的は言うまでもなく、
数日の後にシニョンを訪れる筈の、右宰相マイヨ・ゴレイールの命に、あった。
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