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「感謝祭(カーニバル)」

【13】
 王都バルターゴで、女王陛下自らによる物騒な命令が下されていた頃。
 シニョンの屋敷で設計図を睨んでいたヘルストックは、不意の気配に気付いて顔を上げた。
 つい先程まで目の前に居た繋ぎ役の諜報員のものではない、明らかに殺気を含んだ侵入者の気配だ。
 静かに椅子を引き、棚に隠していた剣を素早く手に取る。と同時に、明かりの届かない書棚の影へと視線を向けた。
「……誰だ」
 ヘルストックと侵入者との殺気がぶつかり、ちり、と小さな音を立てた。
 瞬時に圧迫と緊張とが室内を満たし、殺意の源たる場所に見当をつけて鞘を払ったヘルストックは、傷の走る精悍な顔を歪ませてそちらを睨んだ。
「往生際の悪い奴だな。居場所を悟られた上でなお、顔を見せる勇気がないか」
 影が動いた。なめらかな動きで光の下に現れると、それは優美な黒い人影へと変化する。
 流れる黒髪に身体を覆わせ、まるで闇が具現した様な男がそこに立っていた。
 感情の読みとれない顔は繊細な美貌を際立たせているが、鋭い瞳には蛇の様な不気味な光が宿っている。
 その姿を目の当たりにしたヘルストックは、彼が以前にも何度か顔を合わせたことのある人物だと気付いた。そして、彼の正体も。
「ゼフィトス・ガーゼイ、か……設計士を狙った連中が居たのだと、忠告は受けていたが」
「潔癖かつ理想的な軍人にしてビュシリの剣士、ヘルストック殿。この様な場所で貴殿と会いまみえるとは、本当に残念だ」
 影が、答えた。かたく人形の様に表情のない顔が、ようやく感情を宿して人間になる。
「それにしてもまずいやり方だったな。お陰で俺は貴殿を殺さねばならない」
「何を言う。国を破滅に追いやる悪魔の手先が、自らの立場を省みて思い知るが良い!」
 ゼフィトスは微笑んだ。と同時にふつりと燭台の炎が消え、室内は更に深い闇に包まれる。
 構えを取ったヘルストックの前で、浮かび上がる様に現れた白い手には、鈍く輝くナイフが握られていた。
「遺言があれば伝えよう。とは言え、貴殿の仲間達もすぐ後を追うことになるだろうが」
 ヘルストックが動いた。
 ぶん、と風を斬る剣の動きは驚くほど早いが、真横に凪いだそれは闇に溶けたゼフィトスを逃し、次の瞬間射かけられた短刀の幾つかを弾き返した。
 かん、と言う金属音が響き、その後に短刀が壁に突き刺さる音が数回続く。
(どこに居る!?)
 敵は気配を殺す達人だ。軍人などより余程闇に乗じた戦いを知っている。
 しかし焦りはなかった。野外ならともかく、ここはヘルストックが長く過ごした屋内なのだ。
 背後で殺気が弾いた。
 咄嗟に振り返り、反射的な動きで剣を突き出す。手応えはない。そのまま左右に払うとようやく重い感触があった。
(違う、この感覚は)
 咄嗟に剣を引き戻そうとしたが、重い感触はしっかりと剣の動きを封じている。
 しまった、と閃いた勘が脳に到達するより早く、ヘルストックの眼前を赤い光が染めた。
 ……倒れ込む姿を支え、音もなく絨毯の上に置いてから、ゼフィトスは自らの上着で捕らえていた剣を死体の脇に転がした。
 手を伸ばし、首の窪みを突き刺した彼の短刀は、僅かの狂いもなくヘルストックの命を奪い去っていた。
「こんな場所で身を腐らせるから、腕を落とす羽目になる。黙って王宮に士官しておれば良かったものを」
 手を伸ばし、見開いたまま絶命しているヘルストックの瞼を閉じさせると、ゼフィトスは皮肉に満ちた呟きを洩らした。
 いずれの時も死者に言葉を残したことのない彼にとって、それは常にないいたわりを込めた呟きだった。
 やがて立ち上がったゼフィトスは、卓上にあった数枚の設計図を手に取ると、次いで書棚から取り出した幾冊かの本を小脇に抱え込む。
 喉を切り裂かれた使用人達の遺体が見送る中、ごく自然な動きで屋敷を後にした彼の姿は、瞬く間に祭りに華やぐ大通りの人々の間へと紛れ込んで行った。

*****

 屋敷を出てからずっと、誰かが後を尾けて来ている。
 巧妙に気配を隠し、それでも足早に駆け出したミゼーレを見失うことなく追ってくる刺客の存在に、彼女の恐怖は既に限界まで高まっていた。
 ひたひたと迫る死の予感は次第に強くなってくる。
(失敗した。この分じゃ、ヘルストックにも刺客がついてるわ)
 そう思うと尚更焦りが滲み出たが、しかしこの状況では、さすがに他人の心配などしていられない。
 何よりヘルストックなら簡単に倒されることもないだろうが、自分は護衛術をかじった程度の諜報員なのである。実践はガゼル達暗殺のプロに任せているし、幾ら何でも本物の殺し屋相手に渡り合う自信など全くない。
 シニョンに散る仲間達の間で繋ぎを取ること、それが現在のミゼーレに与えられた役割だった。
 修羅場をくぐり抜けてきたお陰で逃げ足なら早いつもりだし、危険を察知する勘もそこらの中途半端な刺客よりは鍛えられている。
 そして、その勘がミゼーレを更に焦らせているのだった……今、自分の後を追って来るのは相当の刺客なのだ、と。
 何とか人混みの多い通りを走ってはいるが、夜がくれば闇に乗じてやられる恐れが出てくる。
 水路には光が灯り、既にボートを繰り出す芸人達の姿も見え始めていた。
 日が落ちるまであと少しもなく、祭りを明日に控えた町では、人々が待ちに待った水路の光パレードの支度が既に整えられている。
 とにかく自力で逃げられるうちに敵を何とか出し抜き、一番近くにいる仲間に助けを求めなければならない。
(間に合うだろうか……)
 焦りがミゼーレの動きを鈍くする。
 何度も人とぶつかり、平静を装うのが難しくなった。
 滲む汗はべっとりと身体を濡らし、ゆるやかに吹き付ける風をいやに冷たく感じさせる。
 ここから一番近いのはガゼルが匿われている例の設計士の少女の家だ。水路脇の通りから、小さな橋を渡って奥に進めばすぐに着く。
 ようやく近付いた仲間の存在に勇気づけられ、ミゼーレは早足に人通りの少ない路地へと駆け込んだ。
 走って行けばすぐ、すぐ目の前。
 そう思った矢先、針の様な殺気を間近に感じてミゼーレは真横に飛びすさった。
(しまった)
 全身を恐怖が貫く。自分が居た場所、民家の壁に細く長い針が刺さっていた。
 針を使う刺客をミゼーレは知っている。マックス・ロートンを始め、このところ同じ様な手口で仲間が数名命を落としていたからだ。
(イシリオン・ガーゼイ!)
 振り返る様な愚行を犯さず反射的に橋へと向かって駆け出した途端、今度は首に何かが絡まる。
 橋の欄干に手をつき、ミゼーレは身体をねじる様にして振り返った。
 夕暮れが迫り来る淡い紫と青の境目の空の下、渾身の力でミゼーレの首に巻いた縄を絞めているのは、一人の青年だった。黒髪に緑の瞳をした、はっとする程美しい青年だ。
 その顔に表情はなく、縄に込めた力の為に震える腕を見なければ、今、自分を殺そうとしているのが彼だとは到底思えないほど澄んだ瞳をしていた。
 死を告知する天使、の様だと思った。
 けれど喉を締め付ける死の予兆は本物で、ミゼーレはすぐに反撃を試みる。無意識のうちに縄と首との間に差し込んでいた右手に力を入れ、締め付ける力に抵抗したのだ。
 青年は左手を離して腰に手を遣り、その隙をついたミゼーレは咄嗟に敵の急所を蹴り上げる。
 すんでのところで青年が身をかわし、力が緩んだところで何とか彼女はその場から逃げ出そうとした。
 橋の向こう側。あの民家の二階に仲間が……ガゼルが居る。
 背中に鈍痛があった。次いでぴり、と痺れる様な感覚。
 それも無視して懸命に走ろうとしたものの、すぐに足がもつれて橋の欄干の上に倒れ込んでしまった。
 背後から誰かがのしかかり、蒼白になった自分の顔と並んで橋の下を流れる水路に映っている。
 最後の力を込めて身をよじると、刺客の姿が束の間水面から消え、後には背に数本の針を生やした自分の姿だけが残った。
(こんな……こんなところで、)
 終わるのか、と思うと、そのあっけなさに呆然とした。
 恐らく自分の背に刺さった得物は毒針だ。ぴりぴりと痺れる感覚が思考を奪い、全てにあらがおうとする力を消し去って行く。
 視界は帳が下りた様に薄暗くなり、そう思った瞬間に強い衝撃を身体全体に感じた。
 空に放り出された感覚、次いで何かに肩を引かれた様な振動と冷たい水のしぶき。
 それらがミゼーレの知る最後の感覚となった。








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