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「感謝祭(カーニバル)」

【14】
 次第に力を失う女の身体を欄干の向こうに突き落とすと、運悪く、それは橋の土台に引っかかった。
 流れに身体を揺らしながらもそこに留まる女の屍に、イシリオンははっと顔を青ざめさせる。
 針には南の孤島で取れる猛毒の薬草ポリジニが塗り付けてあった。致死量を軽く越えて塗り付けてあるから、あれを身体に受けて助かる者はまずないだろう。
 しかし……、
「イシリオンさん……?」
 ゆっくりとこちらに近付いていた少女がようやく口にしたその言葉に、イシリオンは胸中で深く吐息を洩らした。
 確実に、そして急いで相手を仕留めるつもりなら、本当はナイフを遣うべきだったのだ。
 それでもあえて毒針を使って女を始末したのは、民家から近付いて来る人の気配に気付いていた為でもあった。
 血の跡と、匂いはまずい。仕事を目撃されれば相手が民間人であっても始末しなければならないし、それだけは絶対に避けたかった。兄が聞けば笑ったろうが、一般人を巻き込まない、と言うのは、イシリオンが自らに課した誓約でもあったから。
 仕事なら、良い。だが民間人を殺せば自らに言い訳を与えることも出来なくなる。
 偽善ではあったが、そうしたバランスの取り方で何とかこれまでやって来れた。
 胸中で人を殺めることを泣いて嫌がる自分が居る反面、手に馴染む程に続けて来た暗殺と言う行為を冷静に行うことが出来る自分もまた、確実に存在する。そうした自分を見つけるたびに、もしかしたら自分は既に狂気の淵にいるのかも知れない、とイシリオンは思う。
 兄と約束した最後の仕事を着実にこなしながらも、胸に空いた深い穴は次第に深淵を濃くしてゆく。
(本当に、終わらせることが出来るんだろうか。この僕に)
「やっぱり、イシリオンさん。こんな場所で、どうなさったんですか?」
 確信を持ち、最後には駆け寄って来たその人影はネイナだった。
 既に橋の下から視線を逸らしていたイシリオンは、ごく自然な態度で頬を紅潮させる少女に向き合う。
「……こんばんは。君の方こそ、今から祭り見物に?」
「いえ、設計図をお渡しした方の家に届け物があって」
 橋の下を覗けば女の姿はすぐ視界に入る。
 背筋に冷や汗を伝わせながら、イシリオンは何気なく笑って首を傾げた。
「届け物?」
「お菓子です。そうだ、イシリオンさんも如何ですか? シニョンの感謝祭で食べる卵タルト、私の家では蜂蜜を使うんです」
 嬉しそうに告げて手にしていた篭を持ち上げるネイナ。
 家に戻ればまだ沢山残ってますから、と微笑む彼女に、イシリオンは素早く欄干の下を見やってから篭に視線を戻した。
 欄干に掛けた手が僅かな振動を感じたのは、その時だった。
 土台に引っかかっていた遺体が、ようやく流れに乗ってゆっくりと動き始めたのだ。
「ネイナ、もしかしてそのタルト、例のヘルストックさんの家に届けるの?」
「そう、ですけど……あっ、」
 小さな声を上げて、ネイナの視線が上方へと動いた。緩やかに路地に入ってきた風が、篭を覆っていた布をふわりと空に浮かばせたのだ。
 そのまま水路に落ちる布を追ったネイナは欄干に駆け寄り、ごく自然に水面を見下ろす。
 青ざめたイシリオンが続いて水路を見ると、運良く女の遺体は既に橋の反対側へと流れ去った後だった。
 どっと額を汗が流れる。
(良かった)
 一瞬の差だった。
 安堵と同時に冷や汗も引いて、イシリオンはようやく本心からの笑みを浮かべて目の前の小さな肩をとんと叩いた。
「ではお言葉に甘えて、僕にも分けて貰えるかな。そのタルト」
「え……? あっ、それなら先に取りに戻って……」
「出来ればその後、一緒に散歩に行かない?」
 それはネイナがヘルストックの家を尋ねるのを、何とか避けさせる為の言葉だった。
 今、あの男の屋敷には兄のゼフィトスが居る。
 ヘルストックが仲間と連絡を取り合っていたところを、彼らが二手に別れたところで後を追い、殺す。ゼフィトスはヘルストックを、そしてイシリオンは諜報員の下っ端を……見た所ヘルストックは相当腕の良さそうな剣士だったが、兄が相手ではまず助からないだろう。
 そんな修羅場に出くわせば、運が悪ければ巻き込まれるか、惨劇の第一発見者になるかのどちらかだった。
 いずれにせよ、余り好ましい事態とは言えまい。
「前に言ったよね、今度一緒に感謝祭に行こうって。まだ前夜祭だけど、照明や飾りつけもほとんど終わって水路が凄く綺麗だったよ。それに……本当のことを言うとね、君に会えれば良いなと思って、この辺りを歩いてた」
 効果てきめんだった。
 これまでの比ではない程に顔を真っ赤にしたネイナは、まるで操り人形の様にこくこくと頷き、次第に薄暗くなる視界の中で食い入る様にイシリオンの唇を眺めたのだ。
「時間が有れば、本祭の方にも行ってみようよ」
「はい。では今からタルトを取りに戻りましょう」
 気恥ずかしそうに呟いたネイナに、イシリオンは小さく頷いて彼女の肩を抱く。
 そうして欄干から遠ざける様にして歩き出すと、緊張で身体を強ばらせるネイナを促す様にして、卵タルトの待つ彼女の家へと歩き始めた。
 







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