感謝祭(カーニバル)index > 16

「感謝祭(カーニバル)」

【15】
 こんな場所で再会出来るだなんて、信じられない。
 タルトの入った篭を手に下げ、自然に肩に腕を回しているイシリオンを意識しながら、ネイナは今にも爆発しそうな鼓動を静めるのに必死だった。
 わざわざ自分なんかに会いに来てくれたのだと、そう言ってくれた。本当は彼の姿を橋の上で見た時から「そう言ってくれたら良いな」なんて思ってはいたのだが、実際にそうなるとどうして良いのか分からなくなってしまう。
 卵のタルトなんてほとんど口実みたいなものだったのだ、彼を呼び止める為の。
『でも、良いのかな。こんな時刻にお邪魔して。確か君、一人暮らしだったよね』
 やがて、振り返ったところで心配そうにイシリオンが言った。
 整った鼻梁がすぐ側にあるだけでも緊張するのに、何だって彼はこう、優しく肩を抱いてくれるのだろう?
『あの、別に構いません。本当のことを言うと今は同居人が居るんです。多分まだ外に居るとは思うんですけど……しばらくすれば戻って来ますし』
 以前に食事をした時、ネイナは彼に様々なことを話したが、ただ一つガゼルのことだけは説明していなかった。
 一人暮らしをしている身の上で、怪我をした見知らぬ男を匿っているのだとはさすがに言い辛かったのだ。
 けれどこの時間帯ならガゼルはまだ町を出歩いている筈だし、深く説明せずに済むだろう……何より先に差し障りのない説明だけしておけば誤解されることもない。
『その人、知人なんですけど、怪我をしていたのでうちで養生して貰っていたんです』
 慌ててつけ加えると、イシリオンは何となく納得してくれた様だった。
 家の中は当然ながら閑散としていて、タルトの篭を手に戸締まりをした先程と何の変わりもなかった。
 昼前から出掛けていたガゼルはやはり戻っておらず、その事実に安堵しながら食卓の上のタルトを包もうとして、
 ……咄嗟に、動きを止めた。
 戸口に立ったままのイシリオンが、見たこともない様な険しい表情で奥を眺めていたのだ。
 視線を追ったネイナは、二階の階段からゆっくりと姿を現したガゼルに気付いた。いつの間に戻っていたのか、こちらもひどく険しい顔をしている。
 その視線は真っ直ぐイシリオンを睨んでおり、突如訪れた険悪な雰囲気に、ネイナは思わず声を上げた。
『ガゼルさん、前に話したでしょう? この人がイシリオンさんで、絡まれていた私を助けてくれた……』
『ああ。分かってる』
 ガゼルは答えた。奇妙な答えだった。
 イシリオンの話をする時、ネイナは彼の外見についてもくどくど説明してしまっていたから、そのお陰で彼の正体に気付いたのだろうが……それにしたってこんな恐ろしい顔でイシリオンを睨む理由が分からない。
『それで、この家に何の用だ?』
 やがてガゼルがそう切り出した。その途端、ふっとイシリオンの身体が動いてネイナの前に立つ。
 イシリオンが、何か言った様だった。けれどこちらからでは彼の背中と表情を変えたガゼルの顔しか見えない。
『ネイナ、上に行ってろよ。俺はこいつと話がある』
『だけど』
『僕からもお願いするよ。すぐに済むから、その後で散歩に行こう』
 振り返ったイシリオンは、噛みつく様に言ったガゼルとは対照的な優しい顔をしていた。その言葉を読み取り、今度はガゼルを見ると、やがてネイナは肩を落として階段へと向かう。
 途中ですれ違ったガゼルはぴりぴりした顔つきでこちらを振り返ろうともせず、ようやく階段をあがり終えて二階の部屋に入ると、後は大人しく扉を閉めるしかなかった。
(一体どうしちゃったんだろう。ガゼルさんがこの時間帯に居るのもおかしいし、それに最初からあんな剣幕で応対しなくても)
 とん、と寝台に腰掛けたネイナは、無意識のまま持って来てしまったタルトの篭を真横に下ろすと、かたく閉じられた扉に視線を馳せた。
 こんな時、強く思う。耳が聞こえたら良いのに、と。
 階下の二人がどんな話をしているのか、ネイナには見当もつかない。まさかお兄さんぶったガゼルが(最近の彼には、何故かそうしたところがあるのだ)突如現れたイシリオン相手に喧嘩腰になっている……と言う訳でもないのだろうが、二人の様子は確かに尋常ではなかった。
 果たして仲介役に入らずにこんな場所で落ち着いていて良いのだろうか。
(もう、日が暮れてしまう)
 落ち着きなく視線をさまよわせ、やがて眺めた窓の外は既に紫の色を濃くし始めていた。
 この分では今日中にヘルストックにタルトを届けるのは無理だろう、卵のタルトは感謝祭の最初の朝に食べるのが習慣だからと、今朝慌てて作ったのに。
 篭から一つつまんで口に入れると、淡い甘みがふわりと広がる。亡くなる前に母が教えてくれたログワル家の卵タルトの味、何度も何度も味わうと、まだネイナの耳が聞こえていた頃の記憶が甦ってきた。
 ネイナが聴覚を失ったのは七つの時のことだった。一人で遊んでいる最中に川に落ち、その数日後に耳に入った細菌が原因で音が聞こえなくなったのだ。
 すぐに治療すればこんなことにはならなかったと両親は泣いて悔やんだが、すがる思いで探した医師の誰もが、ネイナの聴覚が戻る日は生涯来ないだろうと宣告した。
 だからネイナは、音を全く知らない訳ではない。七つになる迄に聞いた音は全て記憶しているし、水路を流れる水の音も、近くの塔から聞こえてくる朝夕を告げる鐘の音も、そして母が聞かせてくれた歌だってすぐに思い返せた。
 繰り返し、繰り返し、今では確かめる術がないので細部が違っているかも知れないが、どう仕様もなく気分が落ち込んだ時などには、心の中で歌を口ずさんだりすることもある。

  しろい砂漠をしろい馬で しろいお姫様が渡って行く
  灼熱の光も月の光も すべてをのせて馬は行く

(お姫様は、その後どうなったっけ……)
 ネイナは寝台の上に寝転がる。
 大好きな歌なのに、今は何故か思い出せそうになかった。

 





page15page17

inserted by FC2 system