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「感謝祭(カーニバル)」

【18】
 眠りから突き落とされる様な感覚に、ネイナは目を開いた。
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓の向こうはすっかり暗くなり、僅かな冷気が室内にまで漂っていた。
 しばしぼんやりと視線をさまよわせ、寝台の上に倒れたタルトの篭を起こしたネイナは、ようやく意識をしゃんとさせて立ち上がる。
(私、いつの間に……どれ位眠ってたの? ガゼルさんとイシリオンさんは)
 階下での話し合いは済んだのだろうか。それにしても一度は散歩に誘ってくれたイシリオンが、ネイナに何も言わず帰ってしまうとは考えにくい。
 ひとまず階段を下りてみると、タルトを乗せた食卓の部屋に人影はなかった。
 出て行ってしまった? いつの間に!
 誰も居ない室内で不意の寂しさと不安とに襲われ、ネイナはタルトを布に包むと駆け出す様にして外へとまろび出た。
 外灯に照らし出された通りに人影はなく、大通りに出れば観光客が大勢居るのだろうが、生憎とネイナにはその喧噪が聞こえない。
 静かな夜の光景にますます不安をせき立てられ、気が付けばネイナは通りを駆け出していた。
(外で喧嘩になってるのかしら。それとも和解して二人で出掛けた、とか)
 考えて、首を振る。平和的な解釈も出来たが、その思いの隙間をぬう様にしてわき上がる嫌な予感をどうしても無視出来ない。
 初めて会った時、尋常でない怪我を負っていたガゼルと、そのガゼルにぞっとする程恐ろしい視線を向けていたイシリオン……あの二人にどんな接点があると言うのだろう。
(まさか……考えすぎよね)
 胸に浮かんだ答えを無理に打ち消すと、ネイナは尚のこと足を早めて暗闇を駆けた。
 前方の暗がりに人影を見つけたのは、その直後のことだ。
 家を飛び出してから初めて見る人の姿に、ネイナはほっと安堵の息を吐いた。しかしその人影がこちらを振り返った途端、手にしていたタルトの包みをばさりと落としてしまう。
 血の匂いが、ぷんと鼻をついた。男が一人、ぐったりとした警備兵の身体を放り出しながらこちらに向かって歩いて来る。
 ネイナを見て何事か呟いた様でもあったが、外灯の明かりを避ける様にして立っている為に唇の動きが読めない。
 ネイナが動けずに居ると、男はようやく外灯の下に姿を現した。
『設計士の娘、か』
 呟いた男の顔を見るなりネイナは思わず息を呑んだ。
 美しく整った顔……目の前に立つ男は、イシリオンに酷似した美貌の持ち主だったのだ。
『丁度良い、お前なら知っているだろう。イシリオンは何処に居る? 急ぎの用がある』
 ネイナの驚きを無視して言うと、やがて男はイシリオンとは唯一異なる嘲笑を浮かべながら、ゆっくりとこちらに近付いて来た。
『ああ。そう言えばお前は、耳が聞こえないのだったな』
 それが合図だった。
 ネイナは咄嗟に男に背を向けて走り出し、すぐに石畳の凹凸につまづいて倒れ込む。
 振り返ると目の前に男の顔が近付き、その手に握られた短刀の輝きが視界いっぱいに広がった。
 あっと思う間もなく、その短刀の刃先がゆっくりと自分の背中に沈むのを、ネイナは見た。
 何が起こったのか分からなかった。次の瞬間、身体をきしませる様な重い衝撃と痛みとが広がり、その熱さと激しさとにネイナは息が出来なくなる。
 これは何だろう。一体何が起こっている? ついさっきまで自分の家の寝台で眠っていた筈なのに、どうして!?
(まだ夢を……見てるの、私は)
 けれど背中から全身へと広がる激痛は本物だった。
 熱を帯びた頭の中で、今度はちり、と首もとにあてがわれた冷たい感触を認識する。
 短刀かも知れない……何処かはっきりした意識の片隅でそう思うのに、ネイナの身体はぴくりとも動かなかった。
 虚ろになる視界には、ただ、汚れた石畳だけが映っている。
 やがてその石畳の隙間を赤い色が伝って行くと、並行して、身体中の力と全身をめぐっていた筈の熱い何かとが急速に消え失せていった。
 取り返しの付かない巨大な喪失感に見舞われながらも、ネイナはその時、背の上に乗る男の身体がぐらりと揺れたことに気付かなかった。
 急に背中と胸とを圧迫していた重みがなくなり、痛みがますます激しくなるのと同時に呼吸がふっと楽になる。
 そう思った途端に今度は身体を抱き起こされ、ネイナは無意識のうちにぐっと小さなうめき声を洩らしていた。
(誰……?)
 遠のく意識の隅に幼い少年の顔が見える。焦りと不安が滲んだひどく大人びた顔で、ネイナの顔をじっと眺めていた。
 私は助かったのだろうか? 呆然としながらも更に顔を上げると、通りの真ん中で警備兵と格闘する先程の男の姿が見えた。

 






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