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「落ちてゆく夢の終わり」
- 霧練りの少年J
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再び階段を登り始めた三人は、間に休憩を取りながらも、何とか塔の頂上へとたどりついた。
もう二度とお陽さまは見られないんじゃないだろうか、と思い出した頃、ようやく前方から差し込んで来た光。
先頭にいたタカシは、思わず大声を上げてしまった。
「着いたぞ。頂上だ!」
後ろの二人も、タカシに続いて、残りの数段を駆け足で登り切る。
そうして次の瞬間、三人は森の都を象徴する、霧練りの塔のてっぺんに立っていたのだった。
人が八人ばかりが座り込める程度の、小さな石畳の“小部屋”。
四つの細い柱に石の天蓋、周りには低い手すりを巡らせたそこは、空と雲と人間とを最も近づけた場所でもあった。
眼下はすっかり雲に覆われ、真下に広がっているはずの草原などまったく見えない。
「す、ごぉぉぉい!」
「絶景だな、相変わらず」
子供とリウがめいめいの言葉で感心するのに、タカシだけは黙々と霧練りの支度を整え始めた。
空気がひどく薄くて、息切れがなかなか治まらない。
それでもじわりと広がる感動のようなものが、タカシをしっかりと包み込んでいる。
この石の塔の頂上は、引き寄せる前から勝手に雲が飛び込んで来ると言う、特別な霧練りの仕事場だ。
タカシが子供の頃は、選ばれたごく僅かなムネリしか、この神聖な場所に立ち入ることを許されなかった。
父親が亡くなり、自分以外の霧練りがいなくなった今でも、それは変わらない。
こうして立っているだけで、タカシの胸には畏怖の念がこみあげてきそうになった。
「それで、今日はどんな雲を練るんだ? タカシ」
「おっきいのがいいよっ」
リウの問いかけと、子供の楽しそうな声。
タカシは慎重に部屋の真ん中にあぐらをかくと、待ちきれない、といった様子で立っている子供を見上げて、
「おっきい雲細工、かぁ。今日の高積雲は丸くてすぐにちぎれそうだからなあ、せめて巻雲なら作りやすいんだけど」
「ええ〜、でも、おっきいのがいい……」
「ムネリさん、ここは風が強いから、余程のムネリ職人じゃないと雲の形をそのままにして流せないんだよ。タカシの練った雲じゃ、まず無理だろうな」
「うるっさいな!」
そうなのだ。
部屋に風が入らない造りになっているので忘れがちだが、実はこの塔の周辺には常に渦巻き状の強い風が吹いていて、力強く熟練した技を持つムネリでなければ、まるで歯が立たないのである。
実は、それを知っていたからこそ、タカシはよくここで霧練りの真似事をしていたのだった。
どれだけ熱心に練っても、それらの“作品”が森の都の人間の目に止まることはなかったから。
しかし、リウにそこまで言われると。
「見てろよ」
喉の奥で呟いて、タカシはしゃがみ込んだまま、大きく両腕を広げた。
更に目をつむると、大きく深呼吸して、柔らかい雲のイメージを脳裏に浮かばせる。
ふわり。
ゆっくりと手に触れる、柔らかい雲の感触。
イメージはやがて現実となり、目を開くと、雲の通り道から真っ直ぐこちらに引き寄せられた綿菓子のような雲が見えた。
久し振りの霧練りにしては随分と調子が良くて、機嫌を良くしたタカシは、まずは一番簡単なパンの形を作ってみることにする。
ぽんっ。
と大きな音を立てて、粘土のように形をこねられたふわふわの雲が、タカシの手から飛び出した。
尾を引いたそれは途中で形を整え、そのまま子供とリウの目の前を横切って行く。うわあ、と子供が声を上げた。
「あさのぱんとおなじかたち!」
実を言うと『雲の引き寄せ』は霧練りの基本技なのだが、こうして素直に喜ばれると、さすがに悪い気はしない。
気を良くしたタカシは、益々得意になって雲を引き寄せ始めた。
様々な形の雲が生まれ、ちぎれてはまた雲へと還っていく。
パンの次は、食器と、それから湯気を出すカップの形に。或いはスプーンとフォークとフライパン。
他の雲に混じって空に広がって行くタカシの霧練りに、この時ばかりはさすがのリウも、感嘆の眼差しになっている。
作られた作品のほとんどは、あっと言う間に他の雲に紛れて消えてしまった。タカシの練る力が弱いので、普通よりうんと柔かいものしか作れないのだ。
数十分もそうしていただろうか、やがて背後にいたリウが、そっとタカシに声を掛けた。
「湖の国に行くんだな、タカシ」
その呟きはあんまり突然だったので、タカシは束の間、何を言われているのか理解出来なかった。
「……え?」
「お前が旅支度を整えていること位、僕だって気付いていたさ。黒い渦に出入りするようになったことや、いつか必ずナナちゃんを助けてみせると言っていたこと、それら全てを考慮すれば、すぐに推測はつく」
ゆっくりと、タカシは振り返った。そこにあるリウの視線は鋭く、けれど決して責めている風ではない。だからタカシは、素直に「うん」と頷くことが出来たのだ。
「おばさんやおじさんには、内緒にしててくれよな」
「……タカシ、」
「ムネリ達は決して湖の国に行かないことを決めた。伝承ではそうなってるけど、俺は違う」
何故なら、今のタカシにとって“ムネリ”の名は、妹を救う為の唯一の手段なのだから。
「さっきも言ったが、湖の国の王がまだムネリに逢いたがってるなんて保証は何処にもない。それでも行くんだな」
「……どうせ、ここにいたって、誰も空なんか見ないじゃないか」
タカシが答えると、リウはしかめ面になった。
「みんな一生懸命なんだよ。何かを守る為に、一生懸命だ。空を見上げて楽しんでいた頃のことを忘れた訳じゃない。ただ、もう昔みたいに出来ないだけで」
「分かってる。父さんだって、ナナの為にムネリの仕事を捨てたんだから……だけど、やっぱり俺、他には何も出来ないんだよ。たったひとつ、霧練りであることを利用しない限りは」
タカシ達が知らない間に、周りの環境はどんどん変化している。
それなのに、どう頑張ってもタカシには『今』を変える事は出来ない。
だってタカシはまだ、たった十三の子供でしかないから……力のない細い腕を見下ろしながら、自分の無力さを自覚するだけの、ちっぽけな子供でしか。
でも本当に、自分には何も出来ないのだろうか。
何もしないで諦めているだけではないのか……そう考えた時、タカシは気付いたのだ。
自分にはムネリの技がある。未熟でも、世界でたった一人にしか残されなかった技が。
そうしてそれは、湖の国の王様の気を引くことが出来る唯一の「方法」かも知れないのだ。
「周りの人間に何て言われても良い。ただ何もしないで後悔するより、自分が信じたことをやっておきたいんだ。何も出来ないかも知れないけど、それでも、何かが……」
「何もできないのはタカシだけじゃないさ。僕だってそうだ。商人達が金を積み上げて塔と小屋を譲れなんて脅しても、父さんと一緒に怒る位しか出来ない。
僕はタカシのお父さんが練った雲が、どれだけ素晴らしいものだったかを覚えてるよ。きっと一生忘れない。だから正直言うと、今みたいにタカシが霧練りをしていると、どうしてもそれを守りたいと思うし、本当はタカシには、湖の国なんかに行って欲しくないんだ……でも、僕は」
一息にそこまで話すと、リウは沈んだ顔つきで眼鏡の奥の水色の瞳を曇らせ、ぽつりと呟いた。
「……僕は、早く大人になりたいよ」
タカシははっと息を呑んで、そのままリウに掛ける言葉を失った。
ああ、そうだった。
皆、同じなのだ。何もできなくて苛々して、時々がむしゃらに辺りを駆け回って叫び出しそうになる。
今でなくては出来ないこと、すべきことがきちんとある筈なのに、その答えが見つからない。見つかっても、不安でたまらなくて行動に移せない。
そんなことが数え切れない程あって。
どんな人間にも違う苦しみがある。
けれどそれらは結局、自分にしか解決出来ない問題なのだ。
「俺は、」
言葉を詰まらせてタカシは俯く。
「俺はさ、リウ」
「分かってる。僕がここで頑張るのと、タカシが湖の国に行くのとは、違うけど同じだものな」
言うと、リウはさっきまでの暗い陰を振り払って微笑んだ。
「とりあえず、反対はしないことにする。馬鹿なタカシがない知恵絞って考えた結果なんだろうし」
「ちぇっ。お前が賛成だろうが反対だろうが、俺には全然関係ないけどっ」
「……それで、湖の国に行く手筈はどうなってるんだ? コーダ夫妻に秘密にしたいと言うのなら、自力で行くつもりなんだろう?」
「それなら大丈夫、なんたって、」
いつもの調子に戻ったリウに、タカシは、自分で思ったより気が緩んでしまっていたらしい。思わずぽろりと余計な言葉が出た。
「ロウジ達が全部準備立ててくれてるんだ」
「ロウジ?」
尋ね返す声に、タカシは思わず自分の口を手で覆った。
背筋をつーっと冷や汗が伝ったが、しまったと焦っても時既に遅し、だ。
「ああ……ええと……あの……」
「新しい友達なのか、そのロウジって奴。どこかで聞いたことのある名前なんだが」
「え? あ、ああ、そうなんだ。俺、そいつと湖の国に行くことになっててさ……馬車とか全部調達して貰えるから」
「へえ。余程顔が広いんだな、そいつ。それにしてもその名前、本当に何処かで……って、うわっ!」
どうやって話をごまかそうかと頭をぐるぐるさせていたタカシは、その時不意に上がった悲鳴に、ぎょっと我に返った。
何事かと思って見ると、子供が塔の手すりの上に身を乗り出し、今にも落ちそうになっている。
ほとんど同時に子供のもとに駆け寄った二人は、飛びつくようにして小さな身体を手すりから引き離した。
「……お前、お前って奴はぁっ」
「あ、危ないじゃないか、ムネリさん。こんな所から落ちたらどうなるか」
と、こちらの方が余程冷や汗を流しているのに、当の子供は上機嫌でにっこり微笑み、
「くもがきれいだったからね!」
「……さすがはムネリの名前を持つだけのことはある、と言うか……高さを恐れないなんて、タカシよりずっとムネリ向きだよ」
失礼なことを言うリウに、けれどタカシは内心安堵していた。
子供の無茶な行動のお陰で、とりあえずは話を逸らすことが出来たのだ。
心配してくれてるのに、ご免な。
すぐ目の前で笑っているリウに胸の中でそっと謝ると、タカシは遠く広がる雲の切れ間に視線を遣った。
深い深い森の、そのまた向こうに広がる国。
タカシが森の都を出て旅しようとしている場所は、それ程までに遠い彼方にあるのだった。
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