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「落ちてゆく夢の終わり」

霧練りの少年@
 真水の海の浜辺から、岩壁の境界線を越えるとすぐに広がる森。
 瑞々しい輝きに満ちたそこは、一見して人の踏み入る余地のない、うっそうとした深さを覗かせる。
 けれど木々の隙間から差し込む太陽の光は、時折、そこかしこに隠れた小道をうつし出すのだ。
 やがて歩き続けた旅人は、小高い丘へと続く、赤煉瓦の階段にたどり着くだろう。
 階段の左右には木製のアーチが続き、更にその奥、大きなモスグリーンの門が見えれば、森の都はもうすぐそこだ。

 ……山を埋めるようにして作られた街。
 それが、森の都だ。
 別名『霧練りの街』と呼ばれたその地は、小さな大陸にたった二つしかない国のひとつでもある。
 少しずつ山の斜面を削って作られた螺旋状の山道は、岩壁に添うにぎやかな色彩の建物に埋め尽くされていて、普通ではそれが一つの巨大な山だとは判別出来ない。
 街は山の頂上までびっしりと連なっていたが、それにも増して奇妙なのは、あちこち不自然に建てられた細長い建物だった。
 遠くから見れば燭台やケーキの上の細い蝋燭のように見えるそれこそが、過去、むね霧練り達が使ったと言われる貴重な『塔』の遺跡なのだ。
 石造りのそれらの遺跡は、けれど長らく閉鎖されたままになっている。
 鉄の扉には鍵がかけられ、その奥、塔の中心に隠された小さな螺旋階段を登る者も、もはやない。
 塔のてっぺんは鐘のない天蓋付きの頂上になっていたが、それらも霧練り達が活躍した当時のまま、放置されている状態だった。
 確かに、と、都に住まう老人達は言う。
 確かに世界が輝きに満ちていた頃、この塔は森の都を象徴する夢の柱だった。
 人々はこの塔に住んだ職人達を誉め称え、尊敬し、晴れた空に描かれた雲の飾り模様の下で、歓声や、永遠に続くような陽気な笑い声を響き渡らせていたのだと。
 けれど今では、あちこちの路地に広げられていた市場の活気さえ、この街には残っていない。
 霧練りの塔はさびれ、もはや彼らの技術が後の世に伝えられる術はないのだ。
 空が濁り出した数十年の昔から、霧練り達は森の都の歴史より姿を消してしまっていたから。
『霧練りが消えた時、大地から命の灯火は消え、世界は終焉を迎えるだろう』
 それは、いつからか伝わる不気味な予言。
 その予言通り、緩慢に進む終わりの予感を誰もがぼんやり感じ取る日々の中。
 唯一、森の都にムネリの面影を残していたのは、聖雲祭と名付けられた、年に三度行われる祭典だけだった。


*****

 吹きすさぶ風が氷のよう。
 長い長い赤煉瓦の坂道を駆け降りて行く少年の喉の奥で、熱い塊がきゅうっと悲鳴を上げている。
 灰色に陰った建物の間の狭い坂道には、祭りを控えた街人達が慌ただしく行き来していた。
 すんでのところでぶつかりそうになりながらも、少年は身軽に出店の支度を整える商人を避け、篭に入ったパンを運ぶおばさんを避け、“空のまち”から“黒い渦”へと駆け降りて行く。
 いつもならその境界線にある紺色の高い柵の辺りで誰かに見咎められる筈なのに、幸い、今日は祭りの準備で誰も少年に注意を向けていない。
 頃合を見計らうと、少年は飛び上がって太い鉄の柵に乗り掛かった。

 ……今日は聖雲祭の日。
 雲を讃えるこの祭りの為に、選ばれた街の代表達は、広場に向かうパレードの隊列を組む。
 それらを歓呼の声で迎える人々の熱気で、森の都はようやく昔のような活気を取り戻すことができるのだ。
 けれど、折角の楽しい祭りも、走り続ける少年にとってはひどくうとましいばかり。
 そんなものよりもっと大切な待ち合わせの時刻が、あと数分と言うところにまで迫っていたからだ。
(遅刻なんかしたら、大変だぞ)
 次第に額に浮かんできた汗を服の袖口で拭いながら、少年は懸命に足を早めた。
 ただでさえ、このところろくに「待ち合わせ」られなかったのだから……。
 そもそも、小肥りの“堅実で寛大”を絵に描いたような少年の義理の両親は、彼が“黒い渦”に出入りするのをひどく嫌っていて、今日も二人が外出したのでなければ、こうして家を抜け出すのも難しかったのだ。
 両脇に汚れた石壁だけが続く坂道を下って下って、下り切った頃にようやく、最下層にある“黒い渦”の入口が見えてくる。
 祭りの準備で騒がしい上とは違い、陽光の差さない地下のその場所には、永遠に続く夜にも似た暗闇が広がっていた。

 ……森の都には二つの街がある。

 一つは空のまち。
 山の上に作られた、森の都のてっぺんから斜面に広がる煉瓦でできた都がそれだ。
 昔の活気を失ったとは言え、色とりどりに飾られたこの都は、ごちゃごちゃとした建物の「騒がしさ」を考慮してなお、目に鮮やかな美しい景観を有している。

 これに反して地下へと続く街が、黒い渦と呼ばれる場所だ。
 森の都の裾地、空のまちの螺旋の外周の、その終わりから地下にかけて築かれた地下街……紺色の鉄柵の向こう側、ゆるやかな傾斜の先にある、街灯の薄ぼんやりとした光に照らされた繁華街。
 傾斜道はずんずんと地下に続き、山の真下にそのまま逆向きの形で螺旋を描く、地下の街が築かれている。
 森の都の警備の一切は、この二つの街を隔てる紺色の鉄柵から全て無効になる、と言われていた。
“黒い渦”の中でどんな事件が起きても“空のまち”側の介入は一切なし……と言うのが、この街での暗黙の了解だったからだ。
 隣国の湖の都で内乱が起こっている近年では、“黒い渦”での武器や麻薬のやり取りさえ珍しくなく、中には家出をした子供の半数以上が、この地下街で消息を断っていると言う噂まで流れる始末だった。
 これらを考慮した“空のまち”の住人達は、こぞってこの無法地帯への出入りを絶とうとしたが、接客業で生計をたてる地下の住人相手に客の出入りを禁じる法を立てられる筈がない。
 かくして紺色の鉄柵の前に見張りが立つことはなく、今なお、誰もが自由にこの繁華街への境界線を乗り越えることが出来るのだった。
 たった今、少年がしたように。
 最近ではすっかり慣れた淀んだ空気の中、立ち並ぶ店舗を横目にして、少年は欠けた石畳の道を走り続ける。
 地下へと駆け下りるにつれて漂い出す酒の匂いや、あちこちに見え隠れする男女の姿……少年は前だけを見て走り続け、やがては、いびつに切り抜かれた木製の看板をぶらさげた店の前にたどり着いた。

【むらさき煙・ぷかぷかの店】

 剥げたペンキでそう書かれた看板には、沢山の落書きの跡や、ナイフの削り跡がある。
 束の間ためらったものの、店先に掛かる時計の針が、待ち合わせの時刻を既に数分過ぎた位置にあるのに気付いて、タカシは慌てて扉を押し開けた。
 あちこち歪んで隙間の空いた扉の向こうから、途端にむっとした熱気が流れ出し、酒と煙草と甘い匂いとが少年の視界が白く霞ませる。
 少年は咄嗟にむせて咳き込み、すぐにしかめ面になってけぶる視界の向こうを睨みつけた。
 二階建ての店内は大勢の客の姿で溢れ返っていたが、それもその筈、ここは黒い渦の中でも、隣の国からの観光客や商人などが足を運ぶ上等の店なのである。
“黒い渦”にある飲食店は、大抵が水を足した酒や身体に悪い成分のスープを出しているが、その中でも『煙』と言う字の入った看板の店だけは例外、というのは有名な話だ。
 少年は丁寧に扉を閉めると、急ぎ足で丸テーブルを囲む男達の間をすり抜ける。
 奥から声がかかったのはその時だった。





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