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「落ちてゆく夢の終わり」
- 夜伝の人々J
-
- 「よう」
「…………」
目があった途端にかけられた声に、タカシは思わず赤くなる。
今の泣き声を聞かれてしまったのだろうか。
言葉もないタカシの代わりに、子供が「よう」と真似して挨拶すると、男は照れたふうに顔を綻ばせて、
「ちょっと今、外に手を洗いに出ただけなんだけどよ。その……泣き声が聞こえたもんで」
「う……」
やっぱり聞こえていたのだ。タカシはますます赤くなった。
「いや、まあ、気にすんなよ。こんな状況じゃあな、仕方ないさ。泣くなって方が無理だ。おまけにうちの……カナが、色々言ったんだろう」
カナ。
そう言えばあのヨツテの少女は、仲間の夜伝達からそんな風に呼ばれていたのだったと、タカシは思い出した。
「カナの奴を責めないでやってくれな。そりゃあきつい事も沢山言うけど、悪い奴じゃないんだ。今は何もかもが上手く行かないだけで……せめてお前が霧練りでさえなきゃあ良かったんだがなあ」
「え……なんで? 俺が霧練りだと、悪いことがあるの?」
「カナはムネリが嫌いなのさ。お前に罪がないこと位、カナだって承知の上だろうが」
「え……」
「だからさ、まあ、そういうことだ。俺からは何とも言えないんだけどな、その、そういうわけだから」
頑張れよ、とつけ加えると、男はひどく周りを気にしながら扉の向こうに消えてしまった。
名前も知らない男の突然の言葉に、タカシはようやく止まった涙をぬぐいながら、横にいた子供と顔を見合わせる。
「な、なんだよ、今の」
「…………?」
少女、カナが霧練りを嫌っているのは薄々感じていた。
だが、面と向かってハッキリと言葉にされると、やはり戸惑ってしまう。だが。
(あいつ、ちょっとだけ、辛そうだったな)
脳裏に浮かぶのは、カナの紫色の瞳と、夜のような黒髪と、そこから覗く白い顔。
荷馬車の中で奇妙なまでにムネリに興味を持っていたカナだったが、今にして思うと、そこには「嫌い」という以上の何かが込められている気がした。
「タカシ」
考え込むタカシに、けれどそれを邪魔するようにかけられたのは、子供の声だった。
見れば子供はソファから降りて、たった今男が消えたばかりの廃工場の扉口に駆け寄ろうとしている。
足どりは軽やかで、先程まで青ざめて横になっていた人間のものとは到底思えない。
「お、おい、お前……もう大丈夫なのか?」
「うん! それより、こっち!」
「はぁ? おいおい、扉には鍵が掛かってるんだぞ? そんなふうにがちゃがちゃいじったって、どうせ……」
ソファの上であぐらをかきながら言ったタカシに、けれど子供はめげることなく、相変わらずしつこく手招きを続けている。
そのうちとうとう根負けして、タカシはソファから立ち上がった。
「幾ら頑張っても無駄なんだって。さっきの男も、鍵を開けたまま行っちゃうなんて真似、する筈ないんだか……ら?」
呟きかけて、口ごもる。
開く筈のない鍵のかかった扉。
それなのに子供が軽く押した途端、それは大きく外へと開いたのだ。
「う、嘘」
思わず目を疑ったが、なんと、本当なのだった。ようやく乾いてきた目をこすっても、瞬きしても、やっぱり扉は開いている。
目を丸くしているタカシの前で、すっかり元気になった子供が嬉しそうに外へと飛び出して行く。
ぽかん、としたままそれを見ていたタカシも、すぐに我に返って外に出た。
子供は工場の合間のU字型の空き地を堂々と歩いていたが、タカシが慌てて腕を引くと、ぷうっと頬を膨らませて振り返る。
「なにするの〜」
「ば、馬鹿っ、なにするの〜じゃない! こんなことしてたらヨツテの連中に見つかるだろっ? 折角外に出られたんだ、うまく連中をごまかして逃げ出さなきゃ」
子供の腕を掴んだまま、廃工場の影から周りを伺うと、辺りには一面おなじような形の工場が並んでいた。
真正面にも、左右にも、半端でなく広い敷地の至る所に工場がある。
(すごい……)
夜伝の街の規模は、どうやらタカシの想像以上であるらしい。
だが、その工場の煙突が吐き出す灰色の煙のせいで、やはり空は相変わらずどんより暗かった。これでは時間が分からないが、工場から機械を動かす音が響いてたから、今が夜でないことだけは確かである。
もっと空気が綺麗な場所なら、匂いだけで夜の気配を感じとれるのだが。
しかし、この調子では出口を見つけるまでに随分と手間取りそうだ。そう思って溜息を付いた途端、
「あっち、おうまさんがいるよ」
不意に子供がそう言って、前方を指差した。
「ほら、あそこ」
「あ」
確かに、馬がいた。というより馬車だ。工場の前に一台、停まっている。
それは、タカシ達が運ばれた時に用意されたものとは別の、上等そうな焦茶色の車体の馬車だった。
てっぺんに尖った金具と金色の房とを付けた、ゆるやかな玉ネギ形の屋根の車体で、それを引く二頭の馬の背中には、綺麗な紋様の刺繍された布が掛けられている。
(工場の連中の馬車じゃない。誰か、相当な金持ちがいるんだ)
馬車の持ち主が、果たして工場の中にいるのか、それとも外にいるのかは分からない。
だが、タカシにとって重要なのは、今現在、あの馬車の周りにまったく人影がないということだった。
タカシは慎重に広場を見渡すと、子供の手を引いて馬車に駆け寄る。窓から覗いても中に人影はなく、いよいよついてるな、とタカシはにんまりほくそ笑んだ。
「おい、入るぞ」
「でも……」
「いいから!」
強引に子供を引っ張って、馬車の中にもぐり込む。不思議そうにしていた子供にも、ことここに至ってようやくタカシの緊張が伝わったのだろう。うまく騒がずについてきてくれた。
そっと入口の戸を閉じ、ぷはあ、と息を吐く。
その途端に肩の力が抜けて、タカシはようやく、安堵の笑みを浮かべながら子供と顔を見合わせた。
(よし、何とかうまくいった!)
これで馬車が動き出すのを待てば、少なくとも夜伝工場の外に出られる。そうすれば……そこまで考えて、あれ? と気付く。
(馬車が動くのって、ここに誰かが乗った後、だよな)
ここに、誰かが。
さーっと血の気が引いた。と思ったら、最悪のタイミングで外から話し声が聞こえてくる。
間違いなく、この馬車に向かって歩いて来ているのだ。
慌てて辺りを見回しても、向き合う二つの長座席しかない車体に、果たして隠れ場所などあろう筈がない。
そうこうする間にも、外の話し声はますます近付いて、
「……戦争が始まってからこちら、燃料不足が続いて迷惑なものだ。ほんの一握りの燃料が、御者の一月の給金より高いときている……お陰で我が家の車は五台全部が使えないのだからね」
「あら、馬車にも利点はあるわよ、アドルス。なんといっても空気を汚さないしね」
「夜伝がそれを言うのかね? まったく……」
はっきりと会話の内容が聞き取れる頃には、タカシにも、それがカナと人買い商人の声だと判別できるようになっていた。
(よりにもよって、あいつらの馬車だったのか、これ!)
そう思ったのとほとんど同時に、動かし続けていた手がようやく座席の中にある空洞を探り当てた。
座る部分が蓋になっている。
タカシはほとんど反射的に子供の腕を掴むと、そのまま座席の中に飛び込んで、蓋を閉じた。頭上で馬車の戸が開く音がしたのは、その直後のことである。
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