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「落ちてゆく夢の終わり」

壺毒の病B
「失礼ですけど、とてもそんなふうには見えないです」
「確かにそうですね。けれど陛下はやはり、眠っておられるのです。あの日から段々と酷くなっていく……ぼんやりとして、瞳は確かに物を見、耳は確かに音を聞いているのに、陛下には何も感じられないのです」
「……あの日から……?」
 タカシの呟きに、けれど王妃はそっと視線を伏せると、
「長く我が王家の夢でもあった貴方の来訪を、私は心から歓迎します。どうやら貴方は自ら望んでここに来たと言う訳でもなさそうですが、それでも霧練りを見ることは、湖の国の王族にとっての長年の夢でしたから」
「あ……有り難うございます。でも、俺、王妃様の言うとおり、本当に好きでここに来た訳じゃないって言うか……ロウジ達に騙されて……あ、ロウジって言うのは“黒い渦”に住んでいる人身売買の仲買人のことなんですけど」
 長年の夢だと、王妃は言った。
 だがタカシだって夢見ていたのだ。こうやって湖の国の王族と直接話しをすることを。
 夢が現実になろうとしている、その不安と緊張に圧されて、タカシはうまく言葉を紡げない。だが、ここまで来たのだから、どうしても尋ねなければならない。
 森の都で眠り続けるナナの為にも。
「あのっ! あの、ええと、俺の妹、眠り病なんです! 医者がもう危ないかも知れないって言ってて、それで父さんはムネリ職人をやめて別の職を見つけて、森の都では霧練りをする人がいなくなってきて」
「話には聞いています。森の都でも、かの恐ろしい病が広まっていると」
 王妃はいたわるような眼差しでタカシを見、白いすべやかな手でその頬を包み込んだ。
「大変だったのですね。タカシ」
「……俺、聞きたくて。さっきヨツテのカナの父さんがいる研究病院って所に行きました。どうしてあんなことをするんですか? この国の王女様は眠り病を完治させて、元気になった筈でしょう。それなのになん、」
 その時、不意に王妃が表情を強ばらせ、タカシのそばから離れた。
 思わずその視線を追って振り返ると、子供が、じっとしたまま動かない国王の顔を覗き込んでいる。
 タカシはごくりと生唾を呑み込んだ。
 と言うのも、子供から、また、あの不思議な空気が漂っていたのだ。
 ナナを目覚めさせ、タカシを慰め、勇気を与えてくれた大きく包み込むような……側にいれば落ち着いて、自分まで優しくなれそうな柔らかく暖かい空気が。
 子供が王様の膝の上に乗ると、「眠っている」はずの王の顔がぴくりと動いた。
 その様子に、タカシの隣にいた王妃が息を呑んだ時、
 国王が、まるで許しを乞う罪人のように、みずからの頭を抱え込んだ。
 今やすっかりうなだれた王からは、他人を拒絶する冷たい威厳が消え失せている。その岩のように静かな姿を、子供は、ただ無言で見守り続けていた。
「不思議な子供ですね」
 やがてぽつりと、王妃が呟く。
 振り返ると、彼女はひどく驚いた様子で2人の姿を見つめていた。
「陛下が随分と落ち着いていらっしゃるわ。あんな風に穏やかに過ごされるのは、一体どれ程振りでしょう」
 タカシは頷く。分かる、と思った。
 いつも自分のそばにいてくれる、本当の名前さえ知らない不思議な子供。
 初めて出会った時は戸惑い、薄気味悪がっていた筈のその存在は、けれどいつ間にかタカシにとって、かけがえのない心の支えになっている。
 するりと胸の中に滑り込んできた暖かい笑顔。
 きっと、その包み込むような温もりが、かたく心を閉ざした王にさえ届いたのではないのだろうか。
「あの……王様は、いつからあんなふうになってしまったんですか」
「戦争が始まる少し前からです。時折憤りを家臣にぶつけ、誰にも心を許さず、私のことさえ遠ざけるようになり……そうして次第にぼんやりと過ごすことが多くなりました。ああして心を眠らせているか、そうでない時には誰かを傷つけているか。
 けれどぼんやりされている時はまだ良いのです。誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもないのですから。陛下は、変わってしまわれた」
 王妃の言葉に、タカシは何とか答えようとした。
 けれどその視線が僅かに斜めに滑り、青と白の光に満ちた部屋の壁にある、大きなタペストリにたどりつく。
 タペストリ?
 いや、良く見ればそれは、地図だった。
 細々と赤い線の書き込まれた大きな地図。
「……あれは何ですか」
 尋ねると、王妃は静かにタカシを見つめた。憂いを含んだ瞳がわずかに揺れている。
「あの、あそこにある、地図……」
「あれは、現在の戦況を記したものです」
「戦況?七つの領国との?」
 再び目を凝らして、タカシは蝋燭の炎のゆらめきに照らされた地図を眺める。
 そこには真水の海の中心に浮かぶ大陸と、そのいびつな形の島の東北部にある湖の国が大きく描かれていた。反して、南西部に記された森の都はとても小さい。
 湖の国は全部で八つに分類されていて、ひとつが巨大な湖を抱える、最も東北にある海沿いの地。そして、その左右に二つの領地が配置されていた。
 それら三つの地に包まれるように存在するのが、今タカシ達のいる、この王都だ。
 更に、王都から北西に下った場所には、残りの四つの領土がある。その中で特にタカシの目を引いたのは、赤く塗りつぶされた東北部の地だった。
 王都を中心として五つの分類地が赤くなり、白く残っているのはたった2カ所だけになっている。
「あれが、第一の領国。そしてあちらが第二の領国……」
 まるで嘔うように、流れるような声でそう言うと、王妃は赤く塗られた地は制圧された領国なのだと語った。
 それから手を挙げて、まだ戦地となっている領国二つのすぐ側にある湖を指差す。
「あのすぐ近くには城があります。王家の離宮ですが、今では連れ戻された王女達の住む仮の砦となっているのです。それぞれの領国に嫁いだ王女達は、このたびの突然の王の仕打ちを許せず、あの離宮に立て篭ってしまっていて」
「突然の仕打ち?」
「王は七人の領主を城に招き、理由を尋ねる暇さえ与えずに、彼らの首をはねました。知らせを聞いた領主の息子達は、それでも最初は自らの怒りを静めながら交渉しましたが、その全ては無駄に終わったのです。とうとう始まった戦の中で、けれど王の要求と、妻の身を案じた領主の息子達の希望によって、王女達だけは全員この城に戻るように説得を受けました。その言葉に逆らい、王女達が離宮に閉じこもったのは、その直後のことです」
 まるで魂を失った白磁の人形が紡ぐような、静かで、感情を含まぬ声。
 冷たく壁に跳ね返るそれが、王妃にとっては精一杯のかりそめであることを、タカシは悟った。
 それにしても、何と不吉な色なのだろう。赤。赤く塗られた地図。赤……タカシの瞳のずっと奥にまで、染み込んでいく色。
 その時、ふと、何かが引っかかった。
 もしかして、タカシは以前にも、この赤を見たことがなかったろうか?
「王妃様。制圧された二つの領国の王子様がたは、今、どうなさっているんですか」
「彼らはこの城の地下牢にいます。人を寄せつけず、段々と使用人の数さえ減らした陛下なのに、おかしいでしょう。捕らえた領主の息子達を処刑することだけはなさらなかった。おまけに戦争をあおるように、彼らはとうの昔に処刑されたのだと流言して」
 ……赤。赤。赤。赤。
 点滅する赤。不気味な赤。不吉な赤。
 一体、あれはどこで見たのだったか。恐ろしい何かを招く、四角い赤色を。
「陛下が何を望まれているのか、私には分かりません。けれど時々、戦争そのものを望んでいらっしゃるのではないかと、そんなふうにさえ思うようになってしまって」
 溜め息。
「怪しい魔術師など、城に招き入れるべきではなかった。陛下がおかしくなってしまわれた原因は、あれなのです。あの壺をご覧になってから」
 囁きは吐息より小さい。
 けれどタカシは聞いてしまったのだ。何かを暗示する、その言葉を。
「……壺って、何ですか? 魔術師が王様に壺を見せたんですか」
それは夜伝のカナが語ってくれた話にもあった言葉だった。魔術師が来てから、湖の国は面白くなったと……そう。
 ある時、城を訪れた魔術師が特別な占託を告げ、その時から王様は人が変わってしまったのだ、と。
 そう言っていた。
 タカシの震える声に、王妃は初めて、我に返ったようだった。
「いけないわね、私、おかしなことばかり言ってしまった。こうして誰かと話をするのは、随分と久し振りなのです。ですからつい……けれど、こんな悲しいことばかり口にするのはもうやめましょう。
 タカシ、私がすぐに手筈を整えますから、貴方は一刻も早く故郷にお帰りなさい。こんな場所に長居してはいけないわ、陛下のお心が穏やかな今のうちに、急いで」
「魔術師の話を教えて下さい、気になるんです。それに俺、まだ帰れません。最初から眠り病の話を聞くつもりでここまで来たんですから。どうか、お願いします!」






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