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「落ちてゆく夢の終わり」

壺毒の病J
 塔の頂上にたどり着いた時、タカシは酸欠でほとんど身体が動かなくなっていた。
 吐きそうなくらい、胸が痛くて、それに息が出来ない。
 記憶が欠落するほど無心に階段を駆け登り、迫り来る恐怖を何とか心から振り払いながら頂上に向かった結果がこれだった。
 頭の中がちかちかして、上空の薄い空気のお陰でなおさら息が整わなかったが、それでもタカシは胸中で何度も自分の成すべきことを繰り返した。
 霧練りで町の人々に進軍のことを伝え、避難させる。
 その為にここまで来たのだ、と。
 塔の頂上の縁に立ち、周囲を包む雲を見渡す。人々には森の都の海側に避難するよう伝えろと、ルーベは言った。
 早速その言葉を紡ぐ為に雲を覗き込んで、タカシは計画を変更しなければならなくなったことを知る。
 雲の隙間から、かすかに遠く見える森の中。
 そこに、蟻のように移動する黒く細長い何かが見え隠れしていたのだ。
(王都制圧軍! もう、あんな所まで)
 タカシは慌てて塔の“風の通り道”の前に腰掛けると、両手を前にぐっと伸ばした。本日の空は晴天、雲は極上の積雲。
 焦るな、と言う自分の心の声に気を強く持つ。次第に両手には、純白の雲がゆるゆると集まりつつあった。
 もう、森の都の住人全員が避難する時間はない。仮に避難先があるとすれば、恐らくこの頂上、塔のある草原くらいのものだろう。
 タカシはこれまで行った霧練りの中でも一番の気力を振り絞って、塔の周りの雲をかき集めた。
 森の都の人間、塔の下にいる人々に見て貰う為には、大きな大きな文字を作り上げなければならない。
 雲はどんどん大きく膨らみ、一方に偏った白色のお陰で、その周辺は青い空の色を更に濃くした。
 塔の下にいる人間が見れば、それはちょうど白い雲の塊が、塔の先端に集まって行くように見えただろう。
 集めた雲は文字にするまで外には流せない。次第に重くなる雲に、タカシの疲れは段々とひどくなった。
 視界がかすみ、手や腕がきしみ始めている。
(駄目だ。まだ雲は全然足りないのに)
 ようやく最初の言葉を作ると、タカシは何とかしてそれを外に流した。塔の外で渦巻く激しい風が、あっと言う間に雲の文字を流して行く。

“逃げろ!”

 手と腕の痛みは、吐きそうなほどひどかった。
 必死で集めた雲なのに、作れたのは、たったの三文字。
 そしてタカシにはもう、これ以上の雲は持ち切れないのだ。
 紡ぐ言葉はまたたくさんある、それに対してタカシの持てる雲の量は余りにも少な過ぎた。
 これは、最後のムネリの大切な仕事なのに。
(畜生、もっと頑張らなきゃ……もっと、もっと、沢山練るんだ)
 額を流れる汗に視界を遮られ、何度も瞬きしながらタカシは唇を噛んだ。
けれど、と一抹の不安がその胸をよぎる。
 けれど。本当に、この霧練りした雲の文字を、森の都の人間達は見てくれるのだろうか。
『勿論、誰も見てはくれないだろうさ』
 タカシの耳に大きな嘲りの声が響いた。
 それは確かに魔術師の声だった。
『誰もお前の言うことなど聞きはしない。お前の紡いだ雲など、見上げはしないさ』
 そんなことは……。
『お前も分かっている筈だ。分かっているが、納得するのが怖いんだろう。それで無駄なあがきを繰り返している』
 辛辣な魔術師の言葉は、タカシの胸を鋭く貫いた。
 確かにその通りだった。
 森の都の人間は、もう誰も空なんか見上げやしない。何よりこんな子供一人の言葉に耳を傾ける大人など、いる筈がない……。
 何もかも最初から分かっていて、タカシがやっていることは単なる自己満足に過ぎなかった。
 無駄だと分かっていても、やるだけやっていれば言い訳が出来るから。後で自分を責めないで済むから。
(ルーベさん、俺、頑張れないよ。もう駄目なんだ、重すぎて……)
 心を暴かれるのと同時に、タカシの身体から力が抜けていく。
 自分を支えていた最後の力。簡単に剥がれてしまった弱い心の壁。
 もう終わりだ、とタカシは思った。心だけの問題ではない、現に痛みと疲労で震える腕には、もはや余力など残っていない。
 あとはこの支え切れなくなった雲が、自分を巻き込んで塔ごと壊してしまうのを待つばかり。
 そういえば昔、耳にしなかっただろうか。自分の力量を超えた大きな雲を紡ごうとして失敗し、死んでしまった愚かなムネリの話を。

 ……戦争が始まったら、みんな死ぬのかな。

 疲れて遠のく意識の隅で、タカシはぼんやりとそんなことを考える。
 でも、全員が殺されることはないんだろう。捕虜になったり、湖の国に連れて行かれたり、少なくとも今までみたいな暮らしはできなくなるかも知れないけど。
 そうだよ。俺が頑張らなくても、きっと大丈夫なんだ……。

「だめだよタカシ、もうちょっとだよ。あきらめないで、もっとむねりをみせて」

 ……その時。
 声が聞こえた。幻聴かも知れない。それは、ここにいる筈のない、懐かしい……人間の声。

「ム、ネリ……?」






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