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「落ちてゆく夢の終わり」
- 壺毒の病K
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『駄目だ。やはり人間は信じるに値しない存在だった。もうすぐ全てが終わってしまう』
絶望の吐息が辺りを包んでいた。
巨大なディスプレイのパネルは真っ赤に染まり、残った青や緑のパネルも、またたくまに赤へと変わっていく。
動物の姿をした監視者達は、これまでに重ねられた希望と信頼のすべてが、無駄に終わる瞬間を予感して俯いていた。
ただその中で、茶と黄色の斑の毛並みをした猫だけが、灰色の瞳を輝かせてパネルを睨んでいる。
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気が付けば、子供はタカシの真横に立って笑っていた。
タカシは呆然とする。どうして子供がここに?
けれどそんな問いは、どうでも良いことのように思われた。この子供にはどんな答えも必要ないのだ。最初からそうだった。
「たくさんむねりをみせてくれたじゃない。またみせてよ。ここでみてるから、タカシのむねりを、ぜんぶみてるから」
……絶望は、いつだって希望の中から生まれてくる。
魔術師は「奥底」で嘆く。希望など持たなければ、絶望することもなかっただろうに、と。
戦争の足音を聞いた黒い渦の住民は怯えている。
空のまちの人々は、暗雲の立ち込める時代の到来に俯く。
やるせない悲しみに王女達は涙し、国王は孤独に苦しみ、王妃は何も出来ない自分に歯噛みする。
夜伝達は自らの存在の矛盾を知りながら、それでも武器を作り続けるのだろう。
進軍を続ける兵士達の胸には、大切な人々の住む聖域がある。他人のそれを踏みにじってでも守りたいと願い、そうして苦悩する。戦いの中に身を置きながら、その悲しみを誰より理解するリーベもまた、そうした者の一人だった。
絶望は刃となって、人々の心を刻んだ。世界にはどこまでも落ち続ける暗闇しかなかった。
信じ続けた監視者達の願いも空しく、パネルは真っ赤に染まって行く。
けれど今、タカシの絶望は希望へと変わり、大きな勇気になろうとしている。
「そうだよ」
タカシの瞳に力がこもった。
「希望から絶望が生まれるなら、その逆だってある。俺、諦めない。確かに俺の霧練りなんて誰も見てないかも知れないけど、だからって、何もしないで良いはずないんだから。誰も見てないからって、雲を練らないわけには……だって俺は、ムネリなんだから!」
白い雲。白い雲。白い雲。
それは暗雲を打ち払う光を持って人々への言葉を紡ぐ。
膨らむ雲をタカシは身体いっぱいで包み込んだ。柔らかいその感触に目を閉じると、子供がそっとタカシの肩に手を沿えて……、
*****
人々は空を見上げた。巨大な何かが見る間に空を覆っていく。最初にそれに気付いたのは、窓の外を覗いていた子供達だった。
「お母さん、あれ見て。空が凄いよぉ」
街の人々は次第に窓へと集まり、空を見上げ始める。
頭上に広がる白い雲。
それらはますます濃く、隙間なく青空を遮り始め、やがては太陽の光さえぷつりと途絶えてしまう。
突然の事態に驚いた人々は、やがて、雲のあちこちが溶けるように穴をあけ、そこから不思議な光景を覗かせていることに気付く。
「こ、これは……!」
家にこもっていたコーダ夫人は、外から聞こえてくる驚声に気付くと、恐る恐る扉を開けて外に出た。
危ないから部屋にいなさい、と叱るコーダ氏に、けれど返ってきたのは呆然としたコーダ夫人の声。
「あんた……き、来て頂戴! 空を見て!」
その頃、二階で深い眠りについていたナナの瞳が、ぴくりと動いた。
黒い渦。今にも門口へと押し寄せようとしていた武装集団を前に説得を試みていたルーベは、突然、不思議な空気を感じて背後を振り返った。
周りの人々も、きょとんとした表情でばらばらに地上へと駆け出して行く。
今度こそ彼らの行動を止める者は誰一人としておらず、ルーベもまた、皆と一緒になって紺色の鉄柵を越えて行った。
そうして空のまちの人々がぽかんと見上げている空を、彼らも同じように見上げる。
波のように、驚きが人々の間を通り過ぎた。
「……俺達は、夢を見ているのか?」
湖の国の離宮では、兵士に連れられて王城へと戻ろうとしていた王女達が、いち早くそれに気付いていた。
灰色がかった空の雲が、次第に、ある形へと変化し初めていたのだ。
「お姉様、あれを見て」
末の王女の震える声に、王女達ばかりか兵士までもが、一斉に空を見上げた。
そこにあったのは……。
しんとした青い静寂の満ちた部屋で、王妃は諦めに揺れる顔を、王座で沈黙する国王へと向けていた。
胸中にあるのは戦地への慚愧の念。
何も出来ないうちに、とうとう森の都への進軍が始まってしまった。陛下は一体、この大陸にどこまで絶望を広げれば気が済むのだろう。
ここしばらく、あの不気味な魔術師は自分達の前に姿を見せていない。けれどその代償はとても大きかった……果たして、タカシと名乗った子供は、今頃何をしているのだろう。
そうして彼と共にいたあの子供の行方は?
何一つ、王妃のもとに情報が入ってこない。それがひどくもどかしい。
「お、王妃様、王妃様っ!」
その時。
部屋に駆け込んで来た執事の声に、王妃は驚いて顔を上げた。
「どうしたのですか。そんなに慌てて」
「それが……そ、空をご覧下さい! 国人達も騒ぎ始めています……あ、あれは一体」
尋常ではない執事の声に王妃は部屋を飛び出し、廊下の窓へと駆け寄った。
そうして見る。
タカシの行った霧練りが空を覆い、それまで湖の国を灰色で覆っていた汚れた雲が、押しのけられていくさまを。
「あれは……一体」
ぐんぐんと押しのけられた灰色のかわりに、白い雲が広がっていく。
けれどそのぶ厚い雲も、完全に灰色を呑み込んだかと思った矢先に、どろりと溶け始めた。
隙間から覗く何かに目を凝らした時、王妃はふと背後に気配を感じて振り返った。
「陛下……?」
そこには『眠っている筈』の国王の姿があったのだ。
言葉をなくした王妃と執事との前で、王は窓の向こうの光景を、ただ黙って見つめている。
眠り続ける父親を前にして、カナは唇を噛んで俯いていた。
病室は静まり返り、数日前、タカシの霧練りを見て目覚めた筈の父は、彼がいなくなった直後から再び深い眠りについてしまっていた。
以降は一度も目覚めていない。
幼い記憶の中にかすかに残る父の姿を、カナは思い出していた。
母が亡くなった後、カナは家を出た父に代わってヨツテの技術を受け継いだ。一度は慣例に従って工場で働きながらも、結局ヨツテであることを拒否した父を祖父は死ぬまで許さず、やがてカナは異例の若さでヨツテの頭領となったのだった。
祖父が誇りにしてきたヨツテの仕事を、父は拒否した。
それはヨツテになったカナを拒絶すると言うことでもある。
誰より理解されたいと願ったからこそ、カナは父を許せなかった。最後まで互いを理解し合うことなく今日まで過ごし……それなのにムネリの少年は、初めて会ったその日に父の心を掴んでしまった。
父の眠るベッドに頭を乗せて、カナは唇を噛んだまま涙をこらえている。 ふわり、と羽の落ちるような感覚に気付いたのは、その時だった。
カナは慌てて振り返る。
声が聞こえた気がしたのだ。お日さまのように笑う、あの子供の。
まさかと思うカナの瞳に、幻のような何かの姿がよぎった。
そこには「白い雲」が作り出した『霧練り』が浮かんでいた。
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