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「落ちてゆく夢の終わり」

霧練りの少年C
 タカシの家がある方角からは、遠く、森の向こうに広がる水平線がすっかり見通せる。
 海の色を橙に染めながら太陽が沈む頃、茜色に染まった空は、次に紫、最後には曖昧な色彩へと変化して、一日のうちで空のまちをもっとも美しく輝かせるのだ。
 鮮やかな赤煉瓦の通路や階段、彩り豊かな家々の屋根が太陽の照り返しを受ける光景が、タカシは好きだった。
 茜色を受けた森の都は、黒い渦の門のとば口までもをひといろに染め上げさせる。
 幻想的に美しい時間は、けれどすぐ、何の遠慮もない夜の闇に消し去られてしまうのだが。


 ……タカシとナナの親代わりであるコーダ夫妻が帰宅したのは、その日、すっかり太陽が落ちた後のことだった。
 2人は出迎えに現れたナナの姿にすっかり仰天し、続いて子供が起こした奇跡について聞くと、
「聖雲祭に奇跡が起こったんだ。ムネリだったあんた達の父さんが、いつだって見守ってくれている証拠だねぇ!」
 と、手放しに喜んで、目を潤ませた。
「タカシのそのお友達は幸運の手繰り主だよ。ほら、遠慮せずに、たんと食べておくれね」
 コーダ夫人がそう言いながら食卓に並べたのは、祭り用に支度された、いつもより少し豪華な料理の数々。
 大皿に乗った家畜のもも肉や、森の端にある小さな菜園で取れた、野菜と絞り立てのミルクのスープ。
 特製の黒砂糖のパンはコーダ夫人が帰宅してすぐに焼いてくれたもので、香ばしい匂いが湯気と一緒に鼻先にまで漂ってくる。
 コーダ氏の為の淡い琥珀のお茶の横には手作りココアが用意され、ナナの大好きな甘い香りを辺りに漂わせた。
 しかし。
 大好物ばかりが並ぶ食卓と、それを見て喜ぶナナの姿とを嬉しく思いながらも、タカシはやはり子供をまじまじと眺めずにはおれない。
 病気の進行から考えても、ナナは恐らくあと二月は眠ったままだと、通いの医師は話していた。
 それなのにナナは目覚めたのだ、奇跡のように。
 だけど、そんなことがあるんだろうか。
 おばさんの言うように、奇跡が起きた? まさか!
「ほおらタカシ、ぼんやりしてないでこっちの串肉や綿菓子もお食べよ。ナナ、あんたはこっち。病み上がりに油物はいけないからね。なに、このお粥だって美味しいんだから」
「ありがとう、おばさん」
「お茶があるからね、ココアは後にするんだよ……冷めたらすぐに暖めてあげるから」
 野菜とクリームのスープはタカシの好物だ。
 思い悩みながらも、黙々と木のスプーンを口へと運ぶその姿に、ふと、コーダ氏が食事の手を止めた。
「それで、タカシ。このお客人はどこから来たんだったかね?」
 ぎく。
 タカシは思わず、喉の奥までスプーンを突っ込みそうになった。
「タカシが友達を泊まりで連れて来るなんて何年振りだろう。私はね、そのう……これまではずっと、お前がうちに気を遣っているんじゃないかと、そう思っていたんだよ」
「そんなんじゃないよ。今日はこいつが、ここに泊まりたいって言うからさ、それだけ」
「あらいやだ。あたしったら、その子の名前も聞いてなかったよ! ねえタカシ、教えとくれよ。あんたの友達だろう?」 
 給仕を終え、ようやく席に着いたコーダ夫人が子供に問う声に、またもやタカシはスープを吹き出しそうになる。
 名前なんて、タカシだって知らない。答えられる筈がない。
 けれど子供は意外にも、ようやく頬ばっていた肉をごくんと飲み込んで、
「ムネリ!」
 楽しそうに、そう名乗ったのである。
 タカシはぽかんとした。食卓についている皆だって目を丸くしている。
 この子供が、まさか、ムネリだって?
「…………ば、馬鹿、お前っ」
「ムネリ、って言うのかい、あんた」
 けれどコーダ氏は、室内の熱気に赤くなった相好を嬉しそうに崩しながら、子供に尋ねた。
 その目にはどこか懐かしむように潤んでいる。
「そうかい。ムネリの坊やか」
「あら嫌だあんた。坊やじゃなくて女の子だよ。ね、そうだろ?」
「…………!」
 慌てるタカシをよそに、子供は返事もせずにぼんやりとコーダ夫妻を眺め、その頬からぽろりとパン屑が落ちた。
 コーダ夫人は、途端に変な顔つきになる。
「どうしたんだい? まさか、分からないなんてこと……」
「こいつは男だよっ! ミッジの友達で、俺とは知り合ってまだ日が浅いんだ。こいつ森の都の人間じゃないし、時々変なことも言うから、その……変わってるんだよね!」
 我慢出来ずに叫んだタカシに、食卓には再び奇妙な間が出来た。
 タカシが苦し紛れに口にしたのは、同い歳の幼なじみの名だ。
 眠り病の父親を持つ彼には、昔から誰にも言えないような相談ができた。
 “黒い渦”に出入りするようになってあまり会わなくなったが、それでも彼なら、後できちんと口裏を合わせてくれるだろう……事情を説明さえすれば。
「まぁとにかく、気にしないで。こいつホントに変わってるんだ。だから……」
「ここの人間じゃないと言ったが、それじゃあムネリ君は、湖の国の生まれかね? あっちは内戦で大変だろう、こっちにはご家族の方と?」
 コーダ氏の言葉に『ムネリ』は少し考え込んだものの、すぐに「あっち」と壁を指差した。
 それはちょうど海のある方角だった。
「海?」
「湖の国なら、そっちじゃなくて反対だろ。ほら、あそこに世界地図が掛かってるから見てみろ。海の向こうには海しかないんだ」
 この家の台所に続く居間の壁には、大きな黄ばんだ地図が掛かっている。
 それはタカシの父親が大切にしていた物で、二人の子供がここにお世話になることが決まった時、他の荷物と一緒に運び込み、後でコーダ夫妻に頼んで飾って貰った物だった。
 大きな紙面の真ん中に描かれた、鼻を突き出した巨人に似た形の島。
 それがタカシ達の住む大陸で、その周囲には一面の海。
 島一つ、浮かんでいない。
「森の都じゃない国は、同じ大陸にある湖の国だけ。その他には何もないんだからさ」
「でも、あっち」
 もう一度困ったように言った子供に、タカシは呆れて、つんと頬をつついた。
「だから、あっちには何もないんだって! お前、バカか?」
「およしよタカシ、友達に向かって何て口の聞き方だい」
「お兄ちゃん。ムネリさん、ほんとに海の向こうから来たのかも知れないよ」
 その時、それまで黙っていたナナが急に口を開いた。
「海の向こうには、もしかしたらナナ達が知らない世界があるかも知れないでしょう? きっとムネリさんはそこから来たんだよ。だってナナのこと、起こしてくれたんだもん」
「海の向こうには何もないよ。ずーっと水があるだけだ。昔、父さんだって言ってただろ」
「でもムネリさんみたいな人なら、ナナ達が知らない場所を知ってても変じゃないよ」
 みたいな人、と言うのが一体何を示しているのかは不明だが、すっかり尊敬の眼差しで「自称ムネリ」の子供を見つめるナナに、タカシはますます仏頂面になった。
 なんだか分からないが、ムシャクシャする。
 胸の中にこみあげるものを我慢できず、タカシはとうとう妹を睨みつけた。
「いいか、ナナ。この世の中に、特別なことなんて何一つないんだよ。だから湖の国では戦争が続いてるし、父さんも母さんも死んだんじゃないか……お前の病気のことだって、そうだ」
 子供は、さっきよりもずっと困った顔で、左右に座るタカシとナナの顔を見比べている。
「夢見るのは楽しいさ、そりゃ、なんだってできるもんな。けどそれで現実が変わるわけじゃない。ナナが目を覚ましたのも、ただの偶然なんだから」
 いつの間にか、食卓に流れていた空気は色を変え、ぶすぶすといぶかる木炭が、暖炉の炎の中で小さく、崩れる音を立てていた。
 嫌な沈黙が、食卓を支配する。
 息を詰めて俯いたタカシに、その時、やがて空気を和らげるようにコーダ夫人が声を上げた。
「どうやらココアが冷めちまったようだから、暖め直そうね。料理はまだたんとあるから、どんどん食べておくれよ」
「綿菓子を出したらどうだい。皿に盛って、いつもみたいにシナモンを振り掛けると良い」
「ああ、そりゃいい考えだね、あんた。そうしよう」
 ナナがほっと吐息して、コーダ夫人を手伝う為に立ち上がった。
 子供も持っていた布でテーブルの上をごしごしと拭き始め、ただタカシだけが、気まずい思いのまま黙り込んでいる。
 こんな風にするつもりじゃなかったのだ。
 だけど、反省と苛立ちがふつふつと沸き上がる胸中で、自分が原因だと思えば思う程、タカシは意固地になってしまう。
 窓の外は、もうすっかり暗い。
 天に輝く蜜色の月と星とが、寒々と森の都を見下ろす景色……それは森の都の人々に、秋の終わりと冷たい冬の到来とを告げるパノラマのように、タカシの目に映っていた。





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