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「落ちてゆく夢の終わり」
- 霧練りの少年F
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- 清涼な空気をまとって、森の都に朝一番の光が降りそそぐ室内。
夜明けの太陽はすぐに世界を照らし、晴れ上がった穏やかな青空には、丸みのある雲が浮かんでいた。
目覚めてすぐに空を見上げたタカシは、
「高積雲だ」
短く呟くなり、窓から頭を引っ込めた。
高積雲は丸みを帯びた柔らかい雲で、通常、二千から七千メートル上空に現れる。
うんと高い位置にあってはさすがに手繰り寄せられまいが、この雲の高さからすれば、多分今日は絶好の“霧練り”日和と言えただろう。
まだ眠そうにしている子供に、タカシは笑いながら、
「良かったな。練りやすい雲だぞ」
途端、子供の半分閉じかけていた瞳が、びっくりしたように丸くなる。
やがて嬉しそうにソファの上で飛び跳ね始めたその姿に、タカシは苦笑して、窓から入る朝の空気を胸いっぱい吸い込んだ。
(ムネリなんて久し振りだなあ)
父親が亡くなってから、タカシは一度も人前で雲を練ったことがなかった。
それでも心地好い雲の感触が忘れられなくて、実は今までに何度か、こっそりと霧練りを行ったことがあったのだ。
くすぐったい思いで流れる雲を眺めると、タカシは笑いながら子供を振り返った。
「じゃあ、下に行こうぜ。朝食をしっかり食べなきゃ、おばさんは外に出してくれないぞ」
大きく頷いた子供を連れて、タカシは部屋を出る。
けれどそこで足を止めると、ナナの部屋を振り返った。
中を覗き込み、奥のベッドで眠り続けている妹の姿を確認すると、タカシは溜息をついて廊下に戻る。
(当り前だよな。昨日起きたから今日も起きるなんてこと、ある筈ないや)
階段を下りると、美味しそうな朝食の匂いが漂ってきた。
ぐうと鳴ったのはタカシのお腹で、それを聞いたコーダ氏が、森の都のクラフト新聞を手に顔を上げる。
「おはようさん、タカシ。今日は早いね」
「おはよう。あのさ、朝食の後、こいつにこの辺を案内してやろうと思ってるんだけど……御飯、もう出来てる?」
「勿論出来てるよ。……タカシ、ナナの様子は」
台所で大きな身体を忙しそうに動かしていたコーダ夫人が、料理の乗った皿を運びながらタカシに尋ねる。
首を振るタカシに、コーダ夫妻は肩を落とし、けれどすぐに人の良い笑顔を浮かべて言った。
「さあさ、二人とも席について。冷めないうちに食べとくれよ」
ごとんと食卓に置かれたのは、豆のスープと白パンの特製チーズ添え。
とろけるチーズの香りがぷんと鼻につくと、今度は子供の方がくるる、とお腹を鳴らした。
「食べてる間に魚が焼き上がるよ。おかわりもあるから遠慮なしにお食べ」
コーダ夫人の言葉を合図に、二人の子供は競い合うようにして白パンを口に頬張った。
「……それで、今日は森の都のどの辺りを案内してあげるんだって?」
「頂上の塔の所。こいつ、ムネリに興味があるらしいから」
「おや。それなら本当のムネリの仕事を見せてあげたかったねえ。タカシのお父さんは、そりゃもう立派なムネリだったんだから」
上目遣いに、タカシは魚の焼き具合を見ているコーダ夫人の後ろ姿を眺める。
時折、こんなふうに言ってもらえた時などは、いっそのこと自分がムネリの技を修得していることを話そうかと思ってしまう。
けれどタカシは、中途半端なムネリの技を二人に見せたくなかった。
父親のムネリの技を知り、自分以上にその素晴らしさを理解している二人にだけは、絶対に。
「……きっと、塔だけでも十分だよ」
「ああ。それならホミネさんの家にも寄るんだろう。この間作りすぎた練り菓子があるから、ついでに持ってっとくれよ」
「うん、分かった。それから蝋燭と火打ち石……」
「はいはい、分かってるよ。いつものことだからね」
言って、コーダ夫人は丁寧に包んだお菓子と一緒に、燭台と蝋燭と火打ち石とを取り出した。
子供が不思議そうな顔で首を傾げるのに、タカシはおかしそうに笑うと、
「頂上に行くなら、これがいるんだ。後で使うから」
しばらくの後、ようやく食事を終えた2人は、元気良く家を飛び出した。振り仰いだ空には、そこだけ切り抜いたような鮮やかな白い雲が広がっている。
練りやすそうな雲だな、と改めて考えると、タカシはふと、家を出る時に見たコーダ夫妻の様子を思い出した。
このところ“黒い渦”にばかり出入りしているタカシを、2人はとても案じていたのだ。
だから今日、子供を頂上の塔に案内すると聞いて、よほど安心したのだろう。
(この分じゃ、湖の国に行く前は余程慎重に行動しないと)
……タカシの右には遠く森と海の景色、そして左には壁沿いの家が続いている。
それらに挟まれるようにしながら螺旋の坂道を登って行くと、やがては頂上に続く岩階段が見えてきた。
この階段を登ると、いよいよ森の都の頂上につく。
そこには辺り一面の草原が広がり、その中央部分に立てられているのが、天を貫くほどに高い石造りの「霧練りの塔」だった。
「やっぱり上は寒いな」
思わず呟くのも無理はない。
山の頂上の草原を渡る風は冷え冷えとして、更に塔以外の障壁がない為か、豪快に草原を吹き抜けていくのだ。
びゅう、と鳴る風音はあらゆる囲いから解放された鋭さをはらんでおり、それは昔、湖の国の王にさえ屈服することのなかった霧練りの気高さを思わせた。
タカシはじっと目を閉じて、冷たく清涼な風を受けとめた。
喉をあっと言う間にからからに凍えさせる、刺すような秋風。
(ここに来るのも、これが最後かも知れない)
こうして、風に吹かれるのも。
もしこのまま湖の国に行ってしまったら……二度とここに立てないかも知れないのだ。
勿論タカシだって帰って来るつもりではいるが、あちらは内戦中だと言うし、戻れなくなる可能性だって充分ある。
ロウジ達の手前、一度も口にしたことはなかったが、異国の地への旅立ちに不安を感じない訳がないのだ。
湖の国は高度な文明を誇る国で、あちらこちらに高い建物があるらしい。
それでもタカシには、平地に造られた湖の国に、この山頂の草原ほどの場所が存在するとは到底思えなかった。
そして同時に、何故ムネリ達がこの森の都を愛したのかが理解出来る気がした。
森の都は霧練りの為の街でもあるのだ。
風と空と、そうしてムネリ達に愛された都……。
もしこの世に眠り病が存在しなかったら、きっとタカシの父は今でもムネリとして働いていて、皆が見上げなくなってしまった空の上にも、相変わらず霧練りの雲を流し続けていただろう。
そうしてきっと……きっとタカシも、父に負けないくらい立派なムネリになれるよう、毎日頑張っていた筈だ。
時折家の中に雲を持ち帰り、雨雲の作り方を教わっては、母に叱られていたあの頃。
ほんの数年前のことなのに、もう随分と昔のように思えて切ない。
(ここはこんなに綺麗なのにな……)
溜息をついて、タカシは顔を上げた。そのまま塔に向かおうとして、けれど子供がぴくりとも動かないことに気付いて立ち止まる。
「おい、何してるんだ?」
声を掛けてから気が付いた。
子供は眼下に広がる景色に、すっかり心を奪われてしまっていたのだ。
頂上から斜下に広がる森の都の町並み。
遠くに見える森や海、天空には一面の空。
初めてここを訪れる人間は大抵、これらの景色に目を奪われて動けなくなる。
見慣れているタカシだって感動するくらいだから、子供が思わずその場に硬直してしまうのも無理はなかった。
「へへ、凄いだろ。ここからだと、海がずーっと遠くまで見えるんだぜ。な、海の向こうには島なんてないだろ。それからあっち側に行けば、森の向こうの……ほら、例の湖の国もほんの少しだけ見えるんだ!」
誇らしげなタカシの説明を聞いているのかいないのか、子供はまだぽやぁっと海を眺めている。
そのうち退屈になってきたタカシは、強引に子供の手を引っぱると、塔に向かってずんずん歩き出した。
「ほらほら、霧練りが見たいんだろ。それなら早く塔に登んなきゃな。その前に土産を届けて、梯子を借りなきゃいけないけど」
「きれい」
ぽつんと呟かれて、タカシは思わず足を止めた。
「え?」
「きれい、だね。ここはとってもきれい」
宝石のように輝く青緑の瞳。
耳に優しいその声に、タカシは言葉を失った。
それはまるで、忘れていた何かを呼び起こすみたいな、優しい、穏やかな声だったから。
次の瞬間、さらさらと吹き抜ける風が、まるで子供の肌を傷付けまいとするようにやわらかくなった気がした。
風に舞う草原の草さえ、遠慮がちに空中を舞っていく。
何かを思い出しそうになって、タカシはせわしなく瞬きした。
けれど背後から聞こえた乱暴な声が、その回想を台無しにしてしまう。
「風が乱れたと思えば、久し振りにお前が来てたんだな。ムネリの出来損い」
「リウ!?」
ほとんど反射的にその名を呼ぶ。
振り返る必要などない、タカシにこんな嫌味を言うのは、塔の見張り番の息子・リウだけなのだから。
「なんだよ、お前なんかに出来損ない呼ばわりされる覚えはないんだぞ!?」
「残念だが、僕が何であろうと、お前が出来損ないであることに変わりはないさ。……それよりおまえ、この子は」
ようやく振り返って睨み合う2人に、子供はきょとん、と立ち尽くした。
タカシの前に立っているのは、几帳面にとかしつけられた茶色の髪と、ちょこんと鼻に乗せた大きな丸眼鏡が特徴の、生真面目そうな少年だった。
整った顔立ちはどこか神経質そうで、いつも細められている水色の瞳がそれに拍車を掛けている。
腕の中にあるぶ厚い本には、つい今しがたまで読んでいた証拠に橙色の栞が挟んであった。
頭が良くて物静か、そのうえ口の悪さにかけては誰にも負けないリウ・ホミネ。
塔に行く度に顔を合わせ、必ず喧嘩をしてしまうホミネ夫妻の一人息子は、タカシが“ムネリ”であることを隠さずにおれる数少ない友人でもあった。
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