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「かみさまの木」

<序>
  冬の到来を予感させる凍雲が、冷たい青空を切り取る様にして浮かんでいる。
 明治三十六年、秋。冷え冷えと冴え渡る空気の中を、一人の子供が懸命に走っていた。子供の名を、松之助と言う。かっちりした学生服をまとい、小さな身体で飛ぶ様に走っている。
 両脇を木々に挟まれたその道はお世辞にも足場が良いとは言えず、大きな林の影に潜んだ木の根や石が小さな罠を作っていたが、その中を難なく駆けて行く動きは見事と言う他ない。
(まあ、他の連中やったらこうはいかんかったやろな)
 軽やかな足どりを自分のことながら嬉しく思って、松之助はにんまりする。
(あんまりこけて怪我ばっかりしよったら陸市に心配かけるし、しゃーないわ)
 今年十八になったばかりの、心配性のお目付役の青年の顔を思い出す。
 金満家である松之助の実家は貴重な自働車を保有していたので、この山奥の僻地にある診療所通いを知るなり、陸市青年は送り迎えの運転を申し出た。九つも下の主人である松之助に対して、陸市はどうも過保護過ぎるきらいがあるのだ。
(陸市には悪いけど、迎えがおったらさとっちゃんの見舞いがのんびり出来へんしなあ)
 ……大阪、高槻市。民間随一の造船所・大阪鉄工所を始めとする諸工場の連なりから随分と離れた閑静な林の中に、森山診療所はあった。
 当時気管支系の医師として最も名の知れた森山康造が、工業地帯のスス煙の被害者の為に築いた私立の診療所である。
 明治に入って日清戦争が終わると、大阪は次第に商工都市としての発展を見せ始めていた。
 しかしそれに比例する様に煙突から吐き出されるスス煙は大阪西部にたちこめ、住人達を健康面・衛生面双方から苦しめた。
 そうした状況を知った洋行帰りの森山医師が、資金援助に奔走しながらも何とか診療所を建設した、と言うのが、この様な僻地に診療所が設立された経緯なのである。
 その森山診療所に新居伯爵家の嫡男が入所したのは年明け早々のこと。
 東京の実家に住んでいた新居幸里は元来病弱で喘息の持病があり、冷え込む季節にはすぐに風邪をこじらせて寝込んでいた。
 しかし気管支の病気を幾つも併発した今回の病状は特に酷く、特別に気管支の専門医として名高い高山医師の診察を希望した後、長期治療を理由に母親の詠子夫人共々大阪にある別邸に越して来たのだった。
 最初は往診を希望したらしいが、診療所を理由に丁重に断られたらしい。
 その後病状の悪化に伴って診療所に入った幸里は、既にその日から二十日以上もの時間を、診療所の寝台の上で過ごしていた。
 しかし。幸里が大阪に越して来てくれたことにだけは、神様に感謝したい松之助なのである。
 何しろそれまでは松之助が年末年始の挨拶に出向く以外には顔を合わせる機会もなく、どれだけ幸里に会いたいー会いたいーと呻いてもどう仕様もなかったのだから。
 学校の友達は大勢居るが、松之助にとって幸里は特別な存在だった。
 その幸里と少し足をのばせば会えるのだと思えば嬉しくて、松之助は毎日の様に学校帰りに診療所に通った。
 長い林道を抜けると、診療所の敷地はすぐ目の前だ。手入れの怠りの為か意図的なものなのか、ぐるりと絡まる蔦のお陰で洋館然とした趣を放つ診療所の建物は、深い緑と赤に染まった木々の中に浮かび上がる様にして建っている。
 全体的に四角い造りの、片田舎の診療所にしては大きく立派な外装だ。
 その周りにはぐるりと緑が生い茂り、澄み切った森の空気の為か、冬場の木々は景色に滲む様な深い色彩を見せていた。
 広々とした庭を駆け抜け、ようやく玄関にたどり着いた松之助は、まず診療所脇にあるハゼの木の前に立った。
 太い幹に手をつき、限界まで息を吸い込んでは止めて、吐く……を繰り返して、何とか呼吸を整えていると、頭上にふぁさっと軽い感触が落ちてくる。
 汗を拭き拭き頭上にあった紙片を目の前に持ってきた松之助は、すぐに我が目を疑った。てっきり紅葉した木の葉の類だと思ったそれは、舶来物の洋式封筒だったのだ。
(仕事以外でこんなもん使うやなんて、えらい洒落た人がおるんやなあ)
 病室の窓から落ちてきたのだろうか、と思って見上げたが、ここからでは樅の木の影に隠れて何も見えない。
 しばし迷い、封筒に差出人の名も宛名もないことを確認すると、松之助は中に入っていた便箋を取り出した。目を走らせ、再びきょとんとする。
「……まっしろやんか」
 呆然と呟いたのも無理はない。便箋には、何も書かれていなかったのだ。




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