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「かみさまの木」

郵便柱函の謎B
 夜の訪れた診療所は、昼間の静けさなどよりも余程深い、完全に物音の消えた静寂に包まれる。
 窓の外に広がる深淵にも似た闇は、瓦斯灯一つない森林の庭からつむぎ出された夜の吐息の様に漂い、ただ月明かりばかりが淡く黒塗りの夜を和ませていた。
 時刻が十一時をまわり、あれだけ集まっていた警視庁関係者が数名の見張りを残してすっかり帰ってしまった後。
 診療所には事件に怯える患者と看護婦だけが残され、存在するのかどうかも分からない殺人鬼の為に、いつも以上に厳重な戸締まりが成されることとなった。
 昌子の遺体は既にここにはなかったが、夜勤の看護婦達は怯える患者達の為に病室の見回りを倍に増やし、少しでも異常が見つかると、居残りの刑事のもとに報告に走るのだった。
 そうした庇護のもとで患者達がようやく眠りにつき、見張りの刑事が欠伸をかみ殺していた頃……森山医師の部屋の扉を、小さくノックする人影が一つあった。
「森山先生」
 細い声に、森山医師は文字をしたためていた和綴じの本から顔を上げて、眼鏡を外す。
 どうぞと声を掛けると、扉の向こうから幸里がそっと顔を覗かせた。
「こんな夜更けに、申し訳ありません」
 森山医師はぎょっとした。
 見張りの刑事が居るとは言え、あんな事件のあった直後の夜更けに幸里が出歩いているとは思ってもみなかったのである。
「どうしたのかね、何か問題でも」
「いえ。ただ、少しお話がしたくて」
 言いよどむ幸里に、森山医師はそっと席を立つと、部屋にあったもう一方の椅子を卓子の前に移動させた。
 その様子をじっと見守った後、促されるままに一礼して部屋に入った幸里は、後ろ手に扉を閉じると素直に椅子に腰掛ける。
「……それで、話とは? 看護婦達から君がひどくうなされている様だと聞いたが、もしかしてそのことを……」
「いえ、そうではなくて」
 幸里は俯いた。
 うなされていたのは事実で、昨夜からの疲労と睡眠不足のお陰で寝台に横になるとすぐにうとうとするものの、浅い眠りの途中で嫌な夢を見ては飛び起き、再び微睡む……と言うことを何度も繰り返していた。
 悪夢のおおむねは昨夜見た昌子の遺体であったり、見たこともない筈の彼女の殺害現場だったりして、その原因が昨夜の事件にあることは明白だった。
「あんなことがあった後だから、無理もない。実は伯爵夫人がひどく君のことを案じておられてね、出来ればすぐにでも診療所を出られる様にして欲しい、と頼まれているのだが」
「申し訳ありません。母と淀見が失礼な事を」
「まあ、仕方がない。それで夢の話でないと言うのなら、この訪問の用件は何なのかな?」
 優しい口調に促されて、幸里はようやく肩の力を抜く。
 少し薄くなった髪とでっぷりしたお腹が目立つ森山医師は、こうして患者と向き合っていると実に穏やかな人柄に見えるが、その実行動力・信念に満ち溢れた好人物である。
 それはこの診療所を強引に開所した逸話からも良く知られているが、幸里が何より嬉しかったのは、彼が幸里に対してあくまで普通に接してくれていたことだった。
 入所の際には詠子に圧されて個室を用意しているが、それも揉めた末に看護婦の取りなしがあって決まったことだと聞いている。
 よそからの気遣いを逆に申し訳なく思う幸里にとって、それは何より嬉しい態度だった。
「お話と言うのは、昌子さんのことなんです」
 だからこそ幸里は、森山医師に真正面から昌子のことを訪ねてみようと考えたのだった。
 この時間帯であれば通いの看護婦達は帰宅しているし、診療を終えているから森山医師ともゆっくり話せる。
 彼の部屋は刑事が配置されている昌子の部屋と玄関との丁度死角にあり、お陰で刑事に見咎められぬ様に移動するのは、そう難しいことではなかった。
「今日の取り調べの時に偶然耳にしたのですが、昌子さんは早くにご両親を亡くされて、ずっと孤児院に居らっしゃったそうですね。だから看護学校に通えず、こちらでは看護婦見習いとして雑用を任されていた、と」
「……和田くんか。弱ったな、そんな話をあちこちでされたのでは」
 吐息して、森山医師は微笑んだ。
「その通りだよ。昌子くんとは、私が留学する以前に働いていた病院で知り合ってね。もともとは彼女の居た孤児院の院長が入院すると言うので、その付き添いとして通って来ていたのだ。当時私はその院長の担当医師として、治療に当たっていた……」

 院長の治療に当たっている間に、森山医師は昌子と随分親しくなった。
 その際に彼女が文盲であること、学ぶ意思はあるのにお金がないので学校に通えなかったこと、その為に将来をほとんど諦めていることなどを知り、病院での下働きの仕事を紹介してやったのだ。

「私はその後すぐに亜米利加に研究留学してしまったが、日本に戻ってこの大阪に診療所を開こうと決めた時、真っ先に彼女のことを思い出してね。開所当時はとにかく人手が足りなかったから、良く働いてくれる彼女の存在は本当に有り難かった」
 当時のことを思い出しているのだろうか。
 僅かに目を細めて森山医師は語っていた。
「その昌子くんが、まさかこんなことになるとは……私には妻も子もないから、どうも彼女のことは娘の様に思えてね。出来れば頃合を見て、学校にも通わせてやりたかった」
「……優しい人でしたね。章太君のことも、良く相談に乗ってあげていた、って」
「ああ。それも和田くんに?」
 背もたれから身を起こすと、森山医師は小さく頷き、
「そうだね。章太くんも複雑な生い立ちの子だから……養子の話がまとまった時にはあちらの使用人が色々と厳しい態度を取ったらしい、とも聞いたことがある。君にも相当な迷惑を掛けたそうだが、あの子なりに苦しんだ故のことではないのかと思うと、私も強く言えなくてね」
「使用人が厳しく、と言うのは?」
 幸里が身を乗り出して尋ねると、
「なに、男爵の希望とは言え孤児院出の子供を引き取ると言うのだから、古参の使用人達も面白くなかったのだろう。かと言って男爵に直訴する訳にもいかず、結局はその分まで章太君に辛く当たった、と言う処だろうね」
 どうやら和田文子は、森山医師相手に『章太犯人説』を論じてはいないらしい。
 章太の所業をどこまで承知しているものか、彼について語る森山医師の声はどこまでも穏やかで、その口調からは労る様な空気さえ感じられた。





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