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「かみさまの木」

郵便柱函の謎D
 翌日、これ以上母親に説教されてはたまらんとばかりに登校した松之助は、友達から昨夜の欠席の理由を問われたり遅れた授業分のノートを見せて貰ったりと、なかなかに多忙な一日を過ごした。
 しかし脳裏から事件のことが離れることはなく、悶々として授業にもさっぱり身が入らない。
 これではサボリと大差ないなと思いつつ、終業時刻が訪れると同時に、松之助は最高記録の素早さで教室を飛び出した。
 校門から少し行くと、唐草模様の柵沿いに並ぶ木々の下に、一台の車がひっそりと停まっている。
 運転席にいる陸市に合図してから、松之助は早速後部座席に乗り込んだ。
「お袋、うまいことごまかせた?」
「はい。それから例の包みもお持ちしました」
 言われて見ると、先日父親から貰ったチチアラトの包みがちょこんと後部座席に乗っている。
 本当は幸里の見舞いに持って行くつもりが事件のうやむやでそれどころではなくなり、かと言って母親の居る前で食す訳にもいかずに今日まで放置していたものだった。
 どうせ六条家に行くのなら手土産代わりにしようと、陸市に頼んで持って来させたのである。
 松之助が座席におさまったのを確認して、車はようやく六条家のある高槻方面へと走り出した。
 鷹谷家所有の自働車はT型フォード車と呼ばれる型のもので、亜米利加で開発された当時最新の自働車である。松之助はもう慣れたが、当初は車窓の向こうで通行人の好奇の目が集中するのに辟易したものだった。
 どうやら振動のない道を選んでいるのかやたらと好奇の視線を浴びる道中で、窓の外を流れる景色をぼんやり眺めながら、松之助は病室で見た六条章太のことを思い出す。
 傷だらけの顔に乱暴な行動。
 幸里への所業には到底許せないものがあったが、だからと言って松之助も、あの子供が犯人だと真剣に怪しんでいる訳ではない。
 和田文子の言葉を客観的に解釈して、昌子と親しかったのなら何か知っているのではないか……と考えた故の訪問なのである。何より昌子の死を知って駆けつけた章太の言葉、嘘だ、と叫んでいた様子を思い返しても、事件と彼とを切り離して考えることは難しかった。
(あの叫び方からして、章太が犯人や言う可能性は薄そうやねんけど……)
 思い悩む間にも自働車は安定した道を進み、やがてあと僅かで日が暮れようとする時刻になって、六条家の門前へと到着した。
 表札を確認し、開け放たれた門から中へと滑り込む車中で、松之助は唖然としてしまう。
『六条男爵家の邸宅』と言うだけあって、その建物は荘々たる雰囲気を漂わせる豪邸であったのだ。
 華族の邸宅を目にするのは初めてではないし、何より新居伯爵家の住まいときたら、大阪の別邸ですら目を見張る程見事な純和風のお屋敷である。
 それでもこれ程の邸宅を前にすると慣れも何もあったものではなく、松之助はすっかり緊張してしまった。
 門をくぐって庭を走り、玄関口まで来たところで車を降りると、丁度良く屋敷の中からスーツに身を包んだ男が姿を現す。
 車の移動を六条家の執事に任せた陸市が追い付くと、男性はそのままこちらに近付いてきた。
 彼こそが、六条男爵であった。
 主自ら出迎えとは恐れ多い話だが、到着の知らせを受けてわざわざ降りてきた彼は、少しもそのことに頓着せず松之助と陸市とに自己紹介をした。
 特権階級者特有の居丈高さは微塵もない。
「今日は丁度工場の視察を終えて戻っていたのだが、執事からタカレンのご子息の来訪を聞いたものでね。様子を見に出て来たのだよ」
 口を開いても当初の好印象は変わらず、招かれざる客になるまいと気を張っていた松之助はそれだけで随分と緊張をほぐした。
 見上げる程に高い天井の客間に案内された松之助と陸市は、ひとまず手土産を使用人に渡すと、天鵞絨張りのソファに腰掛けて六条男爵と向かい合った。
 二三の社交辞令の挨拶を交わしていると、頃合を見計らっていた使用人が紅茶と先程手渡したばかりのチチラアトを持って現れる。
 和食器に載せられたチチラアトの色彩を考慮した皿使いは、渋みのある漆塗りの卓子の上で品良く輝いていた。
「それで、用件と言うのは何かな」
 窮屈そうにソファに座る松之助と、着席を自ら辞退して客間の玄関に控える陸市とを眺めると、六条男爵は穏やかな微笑みを浮かべてそう切り出した。
 松之助はしばし考え、
「ええとですね、実は昨日の診療所で起こった事件のことなんですけど」
 ……選んだ割にはそのものズバリでこう尋ねた。
 途端に男爵は憂い顔になって頷く。
「章太から聞いたよ。あの子が親しくしていた看護婦が亡くなったとか……何でもあちらには新居伯爵家のご子息がおられるそうだが、伯爵家側も随分と案じていることだろう」
 あっさりと話が通じて、松之助は逆に拍子抜けしてしまった。
「だが、その件と私とが、何か……?」
「いえ。男爵に、と言うより、章太さんに話を聞きたいと思うたんです。実は昨日、さとっちゃ……新居伯爵家のご子息に、章太さんがおかしなことを言うてたもんで」
「おかしなこと、と言うと」
 僅かに、男爵の顔色が変わった。
「まさか章太が、伯爵家のご子息に何か!?」
 何かどころの話やあらへんわ。
 と思いつつ、松之助はにこやかに首を振る。
「亡くなった看護婦さんのことを問いつめに来たみたいやったんですよ。新聞とかにはもう出てるんで、ご存知やと思うんですけど」
「ああ、遺体の第一発見者は伯爵家のご子息だったとか」
「そうです。それをですね、嘘やとか何とか問いつめてて……それでもしかしたら、章太さんは何かご存知やないのかと思うたんです」
 男爵は、ひどく困惑した表情になった。
「恐らくあの子は庭に居る筈だ。今日は珍しく診療所には行かずに、一日屋敷に閉じこもったり庭でぼんやりしたりと元気がなくてね。勿論話をするのは構わないが、あの子が正直に話してくれるかどうかは保証出来ないよ」
「男爵が言うても?」
 思わず懇願する様な口調で言うと、意外にも彼は寂しそうに微笑んで、
「あの子は、未だ私に心を開いてはいないのだよ」
 小さく呟いた。
「あの子の外での所業については、私も耳にしている。乱暴を働いて何人かに怪我を負わせたことも、或いは動物を虐待したと言う話も。しかし私には何も言えない。言ったとしても、あの子は耳を傾けてもくれないだろう。そう考えると恐ろしくてね」
「恐ろしい?」
「あの子に拒絶されることが」
 短く答えて、男爵は笑った。
「まったく、情けのない話だ」
「せ、せやけど、そんな心配することあらへんでしょう。あのクソ……やのうて章太さんは、男爵の好意があったからこそ今こうして」
「養子の件は全て私が勝手に決めたことだ。章太はそれを望んでいなかったかも知れない」
 松之助は眉根を寄せた。これは予想外の展開になってきた。
「あの……章太さんと話は出来ますか」
「無論、出来るよ。案内させよう」
 弱々しく微笑んだ後、案内役の使用人を部屋に呼びよせた男爵は、庭に続くテラスへと視線を移した。
 その先には、未だ落ちきっていない太陽の下で輝く緑の芝が広がっている。





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