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「かみさまの木」

白い手紙の謎@
 診療所では私語を禁じ、騒音を禁じる。
 森山診療所には気管支に問題を抱えた患者が多く、埃や空気の汚れの一切が治療の妨げになる為にこうした注意には切実な意味が込められていた。
 お陰でどんな時刻に訪れても、診療所の中は澄んだ空気が滲み込む様な静けさに包まれている。
 学校では元気者のガキ大将で通る松之助も、さすがにこの診療所に足を踏み入れる時には緊張してしまう。静かな場所自体が苦手だし、自分が騒げば幸里に迷惑が掛かると思うと余計に気が張るのだ。

 ……大阪の船場にある大手製薬会社・鷹谷連一郎商店の跡取り息子である松之助は、今年の春から高等小学校への進学が決まった、尋常小学校四年の生徒である。
 明治と言えば進学率がさほど高くなく、義務教育である四年間の尋常小学校から先は高額の授業料が必要とされた時代である。
 高等小学校に進学出来る子供の数は非常に限られており、松之助は、その限られた子供の一人だった。
 平均よりも幾分か小柄な体躯と、歳より幼い女子と見まごうばかりの愛らしい顔立ちをしているが、その容姿に似ず人の三倍は負けん気が強い。
 おんな男と馬鹿にされれば相手が泣いて謝るまでぶちのめし、そうでなくても喧嘩と聞けば、先頭にたって騒ぎの中心に飛び込んだ。
 曲がったことが大嫌いと言う母親の教育方針のお陰で弱い物いじめだけは嫌ったが、それでも地元の小学校では『タカレンの暴れ馬』として恐れられる腕白坊主……それが松之助だった(ちなみにタカレンとは実家の店名・鷹谷連一郎商会の通り名である)。
 そんな松之助だったから、正直幸里と初めて会った時には「こんな奴と友達になんかなれっかい」と反発を覚えたものだった。
 親の取りなしが出会いのきっかけと言うのもまずかったし、そもそも短気な松之助に病人のお守りは荷がかちすぎたのだ。
 松之助は幸里が寝込んだと聞いては外に繰り出し、他の友達と遊び回った。病気になる人間は心根が弱いのだと決めつけ、心底軽蔑した。
 その軽蔑が尊敬へと形を変えたのは、実に些細なきっかけだったのだが……。
(あかん、走って来たら何や暑うなってきた。はよさとっちゃんとこ行って上着脱ごー)
 受付嬢に挨拶をしてから板張りの階段を上がると、松之助は壁側に均等に並ぶ窓枠に手を当てながら廊下を歩いた。
 幸里の部屋は個室で二階の一番奥にあったが、これは基本的に大部屋しかない診療所に伯爵家のご子息が入院すると言うので、急遽個室をこしらえたものである。
 そればかりか彼の病室には常に二人の看護婦がつめていて、病状が安定した今でも、その特別待遇は続いていた。
 幸里はこうした待遇を嫌って大部屋への移動を頼んだが、この希望は母親の詠子夫人にあっさり却下されてしまった。周りの人間には「何を贅沢な」と思われる話だろうが、幸里には深刻な問題なのだ。
 新居家ほどではなくとも、御一新前から道修町に暖簾を掲げる老舗・タカレンの一人息子である松之助にも、その気持ちは何となく理解出来る気がするのだった。特に幸里は繊細で神経質な面があるから、色々と心境は複雑なのだろう。
(まあ、周りを気にせんとのんびりさとっちゃんと過ごせんねんし、やっぱり個室は有り難いなーて思うねんけど)
 窓から入る陽光は硝子を隔てても暖かい。
 板張りの廊下を歩きながら、連日の見舞いですっかり見知った患者や看護婦とすれ違うたびに挨拶していた松之助は、いつも通り幸里の待つ病室の前で足を止めた。

が、しかし。

「ぅわっ!」
 次の瞬間、勢い良く突き飛ばされ、思わず扉の前でよろめいた。
 自分より頭三つ分は小柄な影が、幸里の病室から飛び出して来たのだ。
「な……!」
「どこ見とんじゃ阿呆、ぼーっと歩くなっ!」
 松之助より年少の子供なのだった。
 やたらと掻き傷のあるその顔に気を取られていると、罵声を上げた子供は素早く廊下を走り去ってしまう。
 途中で看護婦にぶつかりでもしたのか、荒々しい足音と共に何かをひっくり返す様な音と悲鳴とが上がったが、既にその姿は階段の向こうに消えていた。
(何やあのガキ。えらいけたたましい音たてて)
 あまりにも突然のことに怒りもわかず、呆然としながら廊下を眺めた松之助は、それからようやく気を取り直して反動で閉じてしまった病室の扉に手をかけた。
 やがて深呼吸しながら内側に開けると、
「さとっちゃん、今ここでガキとぶつかってんけど、あれ……って、ぎゃーーーーっ!」
 声変わりを済ませていない断末魔の様な悲鳴が、辺りに響き渡った。
「な、何やねんこれ、どないなっとんやっ!」
「松之助さんお静かに、ここは療養所ですよ」
 中にいた看護婦が慌てて駆け寄って来るが、松之助はそれどころではない。
「落ち着け言うたかて無理に決まっとうやろ! ……あっ、さてはさっきのガキやなぁ!?」
 松之助が慌てるのも無理はない。
 何しろ本来なら綺麗に整頓されている筈の幸里の病室が、惨々たる変貌を遂げていたのだから。
 まず、棚の上にあった筈の花瓶がひっくり返り、水と踏みしだかれた花とが辺りに飛び散っていた。土台の棚も誰かに蹴られた様に斜めにかしぎ、引き出しの中にあった薬の類が全部放り出されている。
 そうして何より問題なのは、心配そうに様子を窺う若手の看護の者の前で、ぐったりしている幸里だった。
「さ、さとっちゃん……!」
「落ち着いて下さい松之助さん。幸里さんやったら大丈夫。すぐに落ち着きますから」
「せやけど何やねんあのガキはっ!」
「あの子も一応患者さんなんですよ。六条章太言うて、いっつもあっちこっちに怪我作って来はっては、治療して貰てて。ほら、松之助さんかて見たでしょう、あの掻き傷」
「僕が昌子さんを無理に引き留めていたから、きっと拗ねてしまったんだと思う。怒らないでね、松之助」
 まだしつこく文句をつけようとしていた松之助は、寝台から聞こえた弱々しい声にぎょっとして部屋に踏み入った。
 見るとようやく呼吸を落ちつけた幸里が、寝台の上に身を起こして淡く微笑んでいる。
「昌子さん、本当にご免なさい。僕はもう平気ですから、章太君を探しに行って下さい」
「ですけど、私」
 申し訳なさそうに呟いたのは、寝台の脇で幸里の様子を見ていた看護の少女・三沢昌子だ。
 未だ看護見習いである彼女は、診療所関係者の中でも松之助達と一番歳の近い十七で、いわゆる住み込みの雑用係の様な立場にあった。
 仕事の関係上よそに幾人もの患者を抱えてはいたが、今では特に幸里の世話係として個室付きになっている。
 恐らく先程の子供……六条章太少年も、彼女の関わった患者の一人なのだろう。幸里の言う通り、昌子が相手をしてくれないので拗ねたのかも知れない。




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