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「かみさまの木」

六条家の謎A
 夕刻。
 部屋の隅にある燭台の炎が和紙越しにてらてらと映る中、幸里は布団に横たわったまま、薄暗い室内をぼんやりと眺めていた。
 幸里一人が床を取るには少し広すぎる畳の間である。
 耳が痛くなる程の静寂に支配された室内だが、一歩部屋の外に出てもその静けさに変わりがないことを幸里は知っていた。
 この古びた日本家屋の中はいつも静かで、ともすれば人の気配が途絶える瞬間さえあるのだ。
 耳を澄ませば遠く何部屋も向こうの廊下を歩く女中の足音が聞こえそうで、その澄んだ静けさの中に居ると、不思議と頭が冴え渡る気さえする。
(今日は松之助、来なかったな)
 長い間横になって居ると、時間の間隔や夢うつつの境目が次第に掴めなくなってくる。瞼を閉じればすぐに意識が飛び、気が付くと何時間もたっていた、と言うこともしょっちゅうだ。
 食事の時間がなければ今が何日であるのかさえ曖昧かも知れない、そんなことを思いながら瞬きすると、幸里は身を起こして枕元を眺めた。
 そこには二通の封筒が置かれていた。
 何度も眺めては戻し、また眺めてを繰り返して、結局は薬と水差しの乗った盆の中に置いていたのだ。
 今日の昼間、淀見執事が昼食を届けるついでに伝えてくれた話を松之助にも伝えようと思って、用意したものでもあった。
(こちらから出掛けられないのって、やっぱりしんどいな)
 淀見の話とは言うまでもなく、幸里の父が封筒を配った相手のことだった。
 数名の華族と金満家の名を挙げた淀見は、最後になってもう一つ名前をつけ加えたのだ。
 六条男爵、と言う名を。
 何でも工部省(現・郵政省)の知人の夜会で親しくなったそうで、私も何度か男爵の名をお聞きしたことがあります。
 その言葉は、幸里の仮定を十分に裏付けた。
 松之助が指摘した通り、幸里は手紙にあった『タスケテ』の文字が章太のものではないかと考えていた。もし六条男爵の所にこの封筒があったのなら、何らかの形でそれが章太の手元にたどり着いても不思議はないだろう。
 改めて封筒を手に取り、間違えずに文字の書かれてある便箋を取ると、幸里は溜息を付く。
 薄暗い視界に飛び込んでくるタスケテの文字、それは悲鳴の様に切実な思いを伝えていた。
(何故手紙にしなければならなかったのか)
 その理由がどこかにある筈なのだ。
 そうして一通目の白紙の手紙の謎もまた……分からないのは、恐らく自分の知覚する範疇外に『理由』を形作る事実が存在するからだろう。
(これだけ分かってもまだ足りない)
 自分には、何一つ分からない……。
「幸里様。森山先生がいらっしゃいました」
 ぼんやりしていた意識を、襖の向こうの声が呼び戻した。
 はっとして部屋の隅に置かれた仕掛け時計を見ると、時刻は既に午後八時を示している。
「起きていますから、入って頂いて」
 告げると、短い返答の後に足音が遠ざかる気配がした。
 しばらくして再び聞こえてきた足音は二つ。
 襖が横に開き、森山医師の顔が覗くのと同時に、側についていた女中が手早く室内に入って明かりをつけた。
 この和室には大名屋敷を改築した当時に取り付けた電灯があったが、今回の様な来客がある時以外はほとんど使用しない。
 もともと電灯は使用料の高額さから普及率の低迷を強いられており、新居家の様にめぼしい部屋ごとに電灯をつけた屋敷は非常に珍しかったのである。
 森山医師はさすがに海外留学の経験者だけあって何も言わなかったが、それでも屋敷に訪れた当初、この内装の気遣いには相当驚いていた様だ。
 やがて女中が燭台の炎を消して退室すると、森山医師は早速笑顔で語りかけてくる。
「お加減はどうかな、あれから発作は?」
「ありません。診療所の方は如何ですか」
 身を起こして尋ねると、森山医師は首を振って診察鞄から聴診器を取り出した。
「刑事が幾人も出入りして昌子くんの部屋を探ってはいるが、結局何も見つかっていない」
 ……詠子夫人が医師に無理矢理頼んだ新居家への往診は、主に夜間行われた。
 それは診療所を訪れる外来患者を放り出す訳にはいかないからで、森山医師にとって幸里の診療は、まさに『時間外勤務』になるのである。
 初日に謝罪して以降、森山医師は幸里に謝罪禁止令を出してしまっていたから、挨拶の言葉の後に続くのは実際に必要な質問だけだった。
「実は、先日森山先生から預かった昌子さんの封筒の出所が分かったんです」
 聴診器を胸に当てられる前にそれだけ言うと、森山医師は息を呑んで幸里を見た。
「出所が? 本当に」
「はい。あれは僕の父が欧羅巴で買い求めて、六条男爵への手土産にしたものでした。非常に珍しい銘柄なので他では手に入らないのだそうです。それを章太君が持ち出して、昌子さんに助けを求める手紙を書くのに使ったのです」
 全ては推測である。つまり幸里は、森山医師に対してカマをかけたのだ。
 そうまでして情報を集めようとする自分に嫌気が差したが、それでも幸里は知りたかった。足りない情報を集めて、真実を手に入れたかった。
 松之助に不思議がられるまでもない、幸里は自分でも不審に思う程にこの事件に入れ込んでいる。





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