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「かみさまの木」

六条家の謎B
「助けを求める、と言うのはどう言うことだね」
 やがて、森山医師が聴診器を持つ手を止めたまま、呟いた。
「あの子は一体何を」
「森山先生が教えて下さいましたよね。章太君は六条家の使用人達から嫌がらせを受けているって。それで章太君は昌子さんに助けを求めたんです。タスケテって、手紙に書いて」
 伸ばした手に水差しの横に置いた便箋が触れた。
 森山医師が到着したと聞いて慌てて放り出した為、封筒の中にも入っていない。
 開いて差し出すと、文字を覗き込んだ森山医師は呆然となった。
「これを章太君が書いたのか? 昌子くんに。ああ……そうか、それではやはり、私の勘違いではなかったのだな……酷いことを」
「……酷いこと?」
「以前から気になってはいたのだよ。あの子の傷を治療するたびに、明らかに故意につけられた傷を幾つも見たものでね。喧嘩が理由ではない、火種を押しつけた様な跡や切り傷、棒で叩かれた跡さえあった。もしかしたら、と思ってはいたのだが……しかし」
「使用人がしたことだと?」
 尋ねる幸里の声も動揺に震えている。
 森山医師は表情を陰らせながら視線を逸らすと、
「勿論そうと決まった訳ではない。何よりあの傷跡は嫌がらせの域を越えたものだったよ。こんな方法ではなく、直接誰かに相談しなかったのだろうか?」
「昌子さんには直接話していたのだと思います。だからこそ昌子さんは、章太君のことをあれだけ気に掛けていたのでしょう」
「しかし、仮に私の推測が正しいのだとすれば、あれは仲の良い看護婦見習いの少女に相談して済む様な問題ではない。何故、男爵に相談しなかったのだ……?」
 独白してからようやく我に返った森山医師は、幸里の真摯な視線に気付いて聴診器を持ち上げた。
 正座して着物の前をはだけた胸にそれをあてがい、黙々と心音を確かめる森山医師に対して、幸里も口をつぐんだままじっと空を見つめる。
 章太に会ったのは二度、診療所で一方的な訪問を受けた際のことだった。
 慌ただしくて自己紹介の暇もなかったが、それでも彼の顔に幾つもの傷を見たことだけは覚えている。
 あれがもし喧嘩でなく、使用人達の虐待によるものなのだとしたら。
 もしかしたら章太はわざとよそで喧嘩をして、あちこちに傷を作っていたのかも知れない、と考えるのは行き過ぎているだろうか。
 ただ男爵に心配をかけたくないから、と言う理由で。
 たかが使用人と一概には切り捨てられない。古参の使用人ともなると、家の内情を詳しく知るだけに簡単には解雇できないし、情もある。
 第一、華族の使用人ともなれば、大抵は親子代々仕える一家がある筈だから、仮に使用人の虐待が判明しても、男爵が処置に苦しむのは明らかだった。
 章太は子供なりに懸命に考え、それで黙っていることを選択したのだろうか。
 だが、と幸里は思う。
 問題はそんなことではない。もっと重要な何かが、昨日からずっと頭の隅に引っかかっているのだ。
 もっと別の、恐ろしい何かが。
「郵便柱函……」
 呟いた幸里に、森山医師が不審そうに顔を上げる。
「先生。確か昌子さんの事件と並行して、郵便柱函が壊される事件がありましたよね。それについて刑事さんは何か話していませんでしたか」
「いや、特には。私も今の今までそんな事件があったことを忘れていた」
「手紙に関する話が多すぎる気がする」
 それは完全な独白だった。
 普段の幸里にない珍しい態度に、森山医師は困惑した様に聴診器を引き込めると、短く「大丈夫かね」と声を掛けた。
 問われてようやく我に返った幸里が、真っ赤になって謝罪するのに頭をぐりぐり撫でながら、
「君は少し休んだ方が良い、身体ばかりでなく頭と心も一緒にね。昌子くんの事件については君も随分と巻き込まれてしまったし、心が休まらないのは仕方がないが……しかし進んで頭と心を疲労させていたのでは身体の治りも遅くなる。それでは周りの人達も心配するだろう。ところで、あれから悪夢は?」
「……見ません」
 短く答えたが、嘘だった。
 悪夢なら三度に一度は見ている。それも決まって、昌子の事件を暗示する様なものばかりだ。
「それなら構わないが、とにかく今は休みなさい。君が自分を少しでも責めているのなら、そうだな……こう考えて欲しい。君が治らないことには、私がヤブ医者だと責められるのだとね。何しろ詠子夫人と執事殿は非常に君のことを心配されているから、往診の甲斐がないと知れれば首を絞められかねない」
 わざとくだけた調子で言った森山医師に、幸里の表情もようやく和む。
 最後に絶対安静を約束すると、森山医師は立ち上がって頭を下げ、静かに部屋を出て行った。
 診察鞄を手にゆっくりと立ち去るその後ろ姿を見送りながら、幸里の胸の中は申し訳なさで一杯になる。
 卑怯な方法で話を聞き出した幸里のことを、もしかしたら気付いていたのかも知れない……それでもそんな素振りを微塵も見せずに、森山医師は新居家別邸を後にしたのだった。





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