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「かみさまの木」

六条家の謎H
 畜生と呻いてから松之助は章太を見上げた。
「お前、一人で先行け! 客間に俺の親父が居る筈やから、助け呼ぶんや!」
「け、けど」
「お前ほんまにこれでええんか? 昌子さんはお前の為にここに来て、あいつに殺されたんやぞ。それで平気な振りして我慢出来るんか!?」
「章太っ!」
 追いかぶる様に男爵の声が聞こえてくる。
 再び振り返ればすぐ目前にまで来ていた男爵の姿に、章太は僅かな逡巡を見せた後、すぐ階段に向かって駆け出していた。
 その直後に部屋から飛び出して来た男爵は、咄嗟に章太を追うべきか否かを迷ったものの、結局は立ち止まると松之助にゆっくり視線を戻した。
 殺意のこもった視線を受けて、松之助は何とか這ったまま階段と別方向に逃げようとする……階下まで逃げられないのなら、章太が助けを呼んで来るまで部屋に逃げ込むしかないと思ったのだ。
「松之助っっ!」
 けれど。
 すぐに追い付かれて肩を掴まれ、振り返った処にナイフを突き立てられようとした瞬間、悲鳴の様な声に名を呼ばれた。
 あ、と思う間もない。
 限界まで見開かれた視界の先で、男爵の身体がどんと真横に突き飛ばされた。
「さ、さとっちゃん!?」
 幸里だった。
 いつの間に来ていたものか、廊下を走って来た幸里が男爵の身体を思い切り突き飛ばしたのだ。
 その行動が僅かでも遅れていたら、ナイフは真っ直ぐ松之助の身体に突き刺さっていただろう。
「何でこんなとこに居るんや、危ないやろ!?」
「それ僕の台詞! どうして勝手に危ないことするの、陸市さんにまで内緒にしてっ!」
 生まれて初めてかも知れない、振り返った幸里に怒鳴られて、松之助は目を丸くした。
「どれだけ心配したと思ってるの!? ああもう、とにかく立って!」
 有無を言わさず腕を引かれて、松之助はようやくその場に立ち上がることが出来た。
 信じられないことに、現状で一番しっかりしているのは、どうやら幸里らしかった。
 走ったら気管支炎が悪化するのじゃないかとか、危険を省みずに飛び込んで来たのは幸里の方ではないのかとか。
 そうした言葉を全てをはねのける勢いで、幸里は松之助をぐいぐい引っ張って危険から逃れようとする。
 この細い身体のどこにそんな力があるのかと、驚きながらも片足で器用に廊下を走り出した松之助は、振り返った先に男爵の姿がないのに気付いてほっとした。
(逃げたんや、騒ぎになる思て)
 しかしそれはとんでもない誤解だった。
 男爵は逃げてなどいなかったのだ。
 階段を目と鼻の先にした場所で、二人は不気味な音を耳にした。

 ぱん、と言う軽い音。

 と同時に松之助と幸里の足下の絨毯が不自然に毛羽立つ。
「逃げるんじゃないぞ、お前達。死にたくなければそこから動くんじゃない」
 一度は逃げ込んだ筈の部屋から再び現れた男爵の手には、果物ナイフに変わって拳銃が握られていた。
 その銃口が真っ直ぐこちらに向いているのに気付いて、二人は身動きが取れなくなる。
「……よおし、利口だ。良いか、章太が助けを呼んでいるなんて甘い考えは捨てるんだ。あの子は私に逆らわない。どれだけ殴っても蹴りつけても、周りに告げ口一つせずに堪えてきた我慢強い子だ。そうでなければ養子にした意味がないのだがね。だから後は……」
 一息に言って、男爵はにやりと笑った。
 常軌を逸した危なげな笑みだった。
「後は、お前達を始末すれば全ておしまいと言う訳だ。分かるな? あの女が警視庁宛てに書いた手紙を出せ。お前達が持っているんだろう。さあ、早く、こちらに寄越こせ、章太があの女に書いた手紙も全部だ!」
 持っていないし知りませんとはとても言えそうにない状況だった。
 しかし困ったことに二人にはそうした手紙に全く覚えがないのである。
 松之助はじりじりと動いて微妙に立ち位置を変えると、何とか幸里を庇った。
 男爵は恐らく、既に前後の見境を失っている。これだけ騒いでいて使用人が駆けつけて来ないのが不思議だが、少なくとも章太が呼ばずとも啓甫が駆けつけて来るのは時間の問題だった。
 それなのにまだ平気で銃を持ち出す辺り、はや普通の精神状態ではない。
 しかし彼がいつから普通でなくなったのかは、松之助にも分からなかった。
 温厚な紳士、華族の誉れと美談で飾られ、穏和な仮面をかぶって周りを偽り続けたその裏で章太に乱暴を働いていた六条男爵のその二面性こそが、既に普通ではなかったからだ。
 突然現れた幸里は、何故だか一切の事情を把握している様だった。
 しかし不思議なのは、何故彼がここに駆けつけたのかと言うことである。
(どっちにしても、さとっちゃんだけは守らなあかん)
 ここに忍び込んだ挙げ句、窮地に立たされているのは自分の浅はかな行動のせいなのだから、それに幸里を巻き込んで良い訳がない。
 そう思うのに足の震えは止まらず、口を開くことも出来ないまま男爵を睨んでいると、やがて幸里が小さく呟いた。
「僕達は今、貴方が必要とするものを持っていません。けれどあの女と言うのが昌子さんのことなら……彼女を殺したのが貴方だと言うのなら、確かにそれは恐ろしい証拠になるのでしょうね。僕たちを解放して下さい。証拠の品は当家できちんと保管してあります」
 え、と松之助は幸里を振り返った。
 整った顔が、緊張に強ばっている。
 証拠の品とは言っても、松之助達が持っているのはタスケテの手紙と白紙の手紙だけだ。
 あんなものは証拠にもならないし、今男爵が要求しているものとはまるで違っている。
 けれど厳しい幸里の横顔ですぐに分かった。幸里もまた、松之助を守ろうとしているのだと。
「僕達がここで死ねば、もう二度と、証拠の品を取り戻す機会を失いますよ」
「面白い。取引しようと言うのか」
 ええ、と幸里は答えた。掠れた声だった。
 けれど男爵は冷笑して銃を構えると、
「悪いがそこまで悠長にしてはいられない。人が集まれば言い逃れが出来なくなるからな、生きた証拠を消す方が今の私には重要なのだ」
 再び、銃口が二人に向かう。
 やがて安全装置を外した指がゆっくりと引き金に戻り、

 ぱんっ。

 と乾いた音が響いた。途端にがくりと崩れ落ちる身体。




「……うそぉ」
 男爵の指が引き金にかけられた瞬間に目を閉じた松之助には、その時、果たして何が起こったのかが理解出来なかった。
 いつまでたっても痛みは訪れず、ただ発砲音だけが辺りに響く中、目を開けば男爵が血の吹き出す右手を押さえながら跪いている姿がぼんやりと映るばかり。
 その視線が真っ直ぐ自分の後ろに向かっているのに気付いて、松之助はゆるゆると背後を振り返った。
「……貴様……私にこんな真似を……たかが金満家の目付役風情がっ……!」
 階段の踊り場に、陸市が立っていた。
 その手には今なお硝煙をこぼす銃がある。ゆっくりと松之助達に近付くと、その身を庇う様にして立ちながら彼は言った。
「貴方が誰であろうと関係ありませんよ。松之助様に危害を及ぼすのであれば」
 呆然とする松之助と幸里の前で、陸市は冷ややかに言い放つ。
「容赦は、致しません」





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