かみさまの木index > 33
「かみさまの木」
- 六条家の謎K
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- 「……本当に申し訳ありませんでした、松之助様」
随分と拘束されていた気がするのに、外に出てみると太陽はまだ登り切っておらず、辺りには夜明け前の冷気と静けさに包まれている。
さすがに疲れを隠せず捻った足を庇って歩いていた松之助は、警視庁の前に停めてあったT型フォード車の前まで辿り着いた途端聞こえた陸市の声に、眉を潜めて振り返った。
「え。陸市、俺に何かしたっけ!?」
「はい。私の判断の甘さから、松之助様をあの様な危険な目に遭わせ、おまけに足まで」
「いや、判断甘い言うたら俺が勝手に出掛けたんが話の発端やし、足は俺が鈍やったから」
あの時、ぐきりと挫いた足は少し痛めただけで済んでいたのだ。
陸市が背負おうとするのを恥ずかしいからやめてくれと泣いて断った松之助は、結局自力でどすどす歩き続けていた。
……しかし、いつもならここで勝手な行動を叱られている筈が、あれだけ格好良く決めた割にはすっかり沈んだ様子の陸市のお陰か、一同の周りにそうした空気はなくなってしまっている。
一緒に警視庁の建物から出て来た幸里も、最初に思い切り怒鳴ったことで落ち着いてしまったのか口数少なくなり、後は深く反省する松之助が居るばかりだった。
(勝手に行動して皆に迷惑掛けてしもたんや。一歩間違ったらさとっちゃんまで死んどったかも知れん、俺のあほあほっ)
「それにしても驚いたね。まさか六条男爵が犯人だったなんて」
やがて訪れた沈黙を何とかしようと、幸里が小さく呟いた。
今更の話題ではあるが、なしくずしのまま結末を迎えた身としては事件を振り返って意見を述べるしかない訳で、幸里の言葉に松之助も頷くと、
「ほんま、あの人がいきなり現れるまでは疑ってもみんかったしなあ。皆してあの人の嘘の姿に騙されとった訳や」
そもそもの事の始まりは、六条男爵の恐ろしい性癖にあったのだと言う。
六条男爵の父親である前当主は周りからも良く知られた厳格な人物で、一人息子である男爵を非常に厳しく躾けた。
男爵はそれに応えて父親を満足させたが、そうした日々が、彼の中の不気味な性癖を次第に成長させてしまったのである。
孤児院の火災事件が起こった時、彼は福祉活動で訪れていた火災現場で偶然章太を見つけ、養子に迎えた。
けれどその目的は世間の噂通り『美談』と日頃の鬱憤を晴らす対象とにあり、無理をして作り上げた穏和で優しい自分の仮面を保つ為に、彼は章太に手ひどい折檻・暴行を繰り返していたのだった。
幼い頃から暴力を受けていた章太は、それまで自分がどれだけ特殊な環境に置かれているのかを知らなかったのだと言う。
それでも同年代の子供達と知り合い、普通の両親は無闇に子供を殴ったり蹴ったりしないのだと気付いて呆然とした。
何故、と言う疑問は毎月連れて行かれる孤児院での脅迫(それは、餌をちらつかせる様に)に消え、章太は一人苦しみ続けた……彼の暴力行為や短気な態度の原因は、以前の幸里の考察通りそこにあった。
昌子は偶然それを知ったのである。
診療所に通っていた子供の怪我が、どうやらただの喧嘩傷ではないらしい、と察して、出来れば悩みを打ち明けて欲しいと章太に話した。
しかしかたくなな章太の心は開かれず、それ故に昌子は一つの賭けに出る……それが章太の話していた、ハゼの木の神様の作り話だった。
『ハゼの木の神様に手紙を渡すと、神様が章太さんを助けて下さいますよ』
……こうしてハゼの木の神様を使って手紙を集めた昌子は、やがて自分の予想していた以上の事態が起こっていることを知る。
最初は相談に乗ってやるつもりで、けれど手紙の内容の余りの酷さに我慢出来なくなった昌子は、章太が木の神様に宛てて書いた手紙を診療所の自室の床板の裏に隠すと、直接六条男爵のもとに乗り込んだのだ。
私は事実を知っています。章太さんへの暴力をやめて下さい。
言葉にあざ笑う男爵を見て、昌子は最後の切り札を持ち出す。
私に何かあれば、すぐに警視庁の人間が乗り込んでくる様に、章太さんの手紙の在処を書いた封書をここに伺う直前に投函して参りました、と。
……そうして昌子は、かっとなった男爵の手に掛かったのだ。
それは恐らく偶然の事故だったのだろう、助け起こした昌子が息をしていないことを知ると、男爵は慌てて昌子が投函したと言う手紙を求め、使用人に郵便柱函を探して来るよう命令した。
手紙と言う証拠さえなければ、話をもみ消すことは簡単だ。
世間では仏の男爵と噂される男である、昌子の死もうまくごまかし、使用人に頼んで診療所の木に遺体を吊させると、それで全てを乗り切ったつもりでいた。
しかし郵便柱函を壊させてまで調べた手紙は見つからず、男爵は内心苛立ちを募らせながら日々を過ごしていたらしい。
古屋刑事と村井刑事の説明によると、どうやら昌子の手紙投函の話は脅しの為の偽りであったらしい。
しかし章太が書いたと言う手紙の束は、結局昌子の自室の床板の下から発見されている……以上が幸里を犯人扱いした詫びにと、二人の刑事が横流ししてくれた事件の顛末であった。
あの夜、男爵の部屋で交わされた昌子と男爵の会話がどんなものであったのかは、定かでない。
何故昌子が同じ孤児と言うだけでそこまで懸命に章太を助けようとしたのか、その真意でさえも今となっては薮の中である。
それは昌子自身にしか分からないことなのだ。
「せやけど、それやったら俺らの聞いた使用人イジメ説は何やったんやろ……」
「それも偽りではないと思う。同じ屋敷内で暮らしているんだもの、章太君が男爵から折檻を受けていることに気付かなかった筈がない。直接的な嫌がらせはなかったのだとしても、章太君が苦しんでいるのを黙視していたのなら、そこには充分な悪意があったんだよ」
松之助はむ、と口をつぐんで俯いた。
確かに、あの屋敷の中で章太に救いの手を差し伸べる人間が誰一人として居なかったと言うのは、ぞっとする話である。
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