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「かみさまの木」

<終>
 茜色に染まった空が、まるで血の色の様な太陽を映していている。

 橙の色が淡い紅色になり、青になり、紫になると、空は次第に闇の気配を強くし、療養所の庭も一面黒々と陰り始めた。
 雲は急速に夜の襞の中に紛れ、瞬きする間に、辺りには夜の気配が立ちこめて行く。
 その啜り泣きは人気の途絶えた療養所の木の下から聞こえていた。
 療養所の端に植えられたハゼの木は、まるで子供の身体を隠す様に、太い幹を真っ直ぐ空に向けて立っている。
 膝に顔を埋めて泣き続ける子供の上に、やがて影が一つ落ちた。

 ……ハゼの木のお話をしましょうか。

 子供が顔を上げると、そこには女が立っていた。
 微笑む女の顔を見た途端、寒さに凍えた子供の頬がさっと赤くなる。丁度、泣くという行為に羞恥を覚える年頃だった。
 女はそれを見ない様にして、大木を見上げながら言葉を続ける。

 このハゼの木は、療養所が出来るずっと前からここに居らっしゃるんですよ。だから森山先生よりこの療養所のことに詳しいんです。患者さんのことも、先生のことも、ハゼの木には知らないことなんて何もないんですから。

 子供は涙で腫れた目を無理に瞬きさせた。

 この木には神様が居らして、その神様が私達のことをずっとご覧になっているんです。どうしても助けが必要な時は、手紙を書いて渡しさえすれば、願いを叶えてくれたり助けてくれたりするんですよ。

 優しい女の声に、子供は再び瞬きした。
 どんなことでも、と子供が言う。
 どんなことでも、と女が答える。

 どんな悲しいことでも、どんな嬉しいことでも、ハゼの木の神様はちゃんと分かって下さいます。けれどその手紙には本当のことしか書いてはいけないんです。嘘も本当も、ハゼの木には全部お見通しですから。ハゼの木は手紙を読んだ証拠に文字を食べてしまいますから、手紙を渡して、しばらくしてから手紙の文字を見れば、神様が手紙を読んで下さったかどうかがすぐに分かるんですよ。

 子供は涙を拭うと、真っ赤に腫れた目を細めて尋ねた。
 本当に? と。
 女が優しく頷くのを見て、子供は目を丸くしながらハゼの木を見上げる。

 ここに、神様が居るの……?

 次第に深淵の闇が迫り来る闇の中、僅かな光を洩らす診療所の窓に反射して、ハゼの木がちらちらと木の葉を揺らしていた。
 しばらく木の幹に頬を寄せて、子供は女を振り返る。
 唇を引き結んだまま女を見つめると、再び幹に頬を寄せた。


 その日から、子供は毎日の様に手紙を書いた。
 女は子供が帰った後にそれを引き取り、代わりに白紙の便箋を入れておいた。


 ……診療所で事件が起こるのは、これよりわずか数カ月後のことである。


【終】





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