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「かみさまの木」

白い手紙の謎B
 名残惜しみながらも診療所の面会時間を終えて帰宅した松之助は、道修町にある実家には帰らず、そのまま繁華街にある洋食店兼ミルクホール『総味軒』に向かった。
 毎週火曜は診療所通いの他に、もう一つ日課がある。こちらの方は余り気の向かない日課だったが。
「やあ松之助。相変わらず小さいなあ君は」
 ミルクホール『総味軒』の奥、中の様子を隠す様に備えられた観葉植物の横を通り抜けると、松之助は小部屋の様になった隔離席へと足を向けた。
 店員に言われて待ち合わせの相手が既に到着していることは知っている。しかしその相手が六人掛け卓子に並んだ料理を前にへらへら笑う姿を見た途端、余りの情けなさに涙が出そうになった。
 もうじき四十の坂に手が届こうと言うのに、この緊張感のない顔はどうしたことなのか。
 世間一般の父親像とは、もっと威厳に満ちた存在の筈である。さすがに仕事の間はきちんとゆるんだ顔を引き締めているのだろうとは思うのだが、そうでなければとうの昔に、毎週火曜に父親と会うと言う約束を反古にしていた筈だ。
 その松之助の父親の隣には、居心地悪そうに俯いた青年が一人座っている。
 かっちり着込んだ背広を小さく縮こまらせていたが、松之助が現れると、途端に立って頭を下げた。
「申し訳ありません、松之助様。お迎えにも上がらず……」
「あ、ええねんで陸市、座っといて。どうせまた親父が無理に誘たんやろ? 一緒に来てくれんと泣くぞー、とか何とか言うて」
「泣くぞ、とは言わなかったな。松之助をさらっちゃうぞーとは言ったが」
「あんたは駄々っ子か!」
 思わず突っ込むと、松之助は陸市青年の隣にどっしり腰掛けた。
「ほんま悪いな陸市。お袋の方は大丈夫か?」
「松之助様を迎えに行くつもりで出ましたので、少しの間でしたら問題はないでしょう」
 陸市浩三。古くから鷹谷家に住み込みで仕える陸市家の長男で、松之助が尋常小学校に入学する二年も前からお目付役を任せられている苦労人である。
 松之助の様な十近く歳の離れた子供に仕えるのだから色々と不満もあるだろうに、そうした態度はおくびにも出さず、おまけに穏和で良く気が回ると言うので、松之助の祖父や母親の覚えもめでたかった。
 高等中学校を優秀な成績で卒業した彼は、望めば三高進学とて夢ではなかったろうに、京都にある三高に通うのではお目付役が果たせないと言うので、そのまま鷹谷の補佐の仕事を始めてしまっている。
 凛々しい顔立ちとそれを裏切らぬ文武両道な彼の存在は、松之助にとっても自慢であった。
 鷹谷啓甫が普段からやたらと陸市を困らせては楽しむのも、恐らく、彼を逸材と認めた故のことなのだ。
 そればかりか引き抜きを狙っている節さえある……しきりと恐縮する陸市を可哀想に思いながら、松之助は険しい視線を父親に向けた。
「それで。折角お袋の目ぇ盗んで来たっとんや、何や面白い話でもしてもらおーか」
「お前、本気で冷たいなあ。峯子に似て来たんじゃないか、目つきなんかそっくりだ」
「お・や・じっ!」
「まあ待て、先に注文を済ませようじゃないか。どうだ、水泡酒なんかは」
「啓甫様。松之助様にアルコオルを勧めないで下さい!」
「……ケチだなあ。そうだ松之助、実は先だってチチラアトと言う珍しい西洋菓子を頂いてね。今日持って来たから土産にしなさい」
「そら嬉しいけど、そんな珍しいもん家持って返ったらお袋にバレへんやろか。親父に会っとうてばれたら半殺しや」
「そうかあ、確かにそりゃまずい。でもまあチチラアトなんて只のおまけで、私は君とじっくり話がしたくて会う訳だから」
 そんなことに陸市まで巻き込むなよ、と松之助は呆れ顔になった。
「今更じっくり話そうて言われてもなあ。どうせやったら俺とやのうて、お袋とじっくり話した方がええんちゃうか」
「そんな恐ろしいことを平気で言うもんじゃない。殺されちゃうじゃないか、私が」
(自分が悪いて自覚はあるんやな……)
 思わず、溜息。
 自分の歳を弁えず、いつまでたっても自由奔放我侭人生を歩んでいるこの父親が、入り婿と言う立場を省みずに鷹谷家を飛び出したのは今から8年前、松之助が一つになるかならずかの頃である。
 元々母親の峯子とは大恋愛の末の結婚で、今の祖父からは相当な反対をくらったらしい。
 一年近くの説得の末にようやく許可を貰ったが、その際啓甫は、幾つかの条件を突きつけられていた。

 一つ、鷹谷家の一人娘である峯子と結婚するのなら、啓甫は当然入り婿となって鷹谷家を立派に守らなければならない。またはその為の勉強を惜しまず努力しなければならない。

 一つ、実家である三沢家を捨て、その生涯をタカレン(店)に捧げなくてはならない。

 条件とは言え、入り婿と言う立場を考えると少しも無理な約束ではない。啓甫は快くこれを承認し、峯子と二人、晴れて夫婦となった。
 翌年には松之助も誕生し、啓甫は鷹谷家の経営製薬その他の仕事を熱心に学び始めた……筈だったのだ、が。

 峯子は忘れていたのだ。熱しやすく冷めやすい、どうしようもないこの啓甫と言う男の性分を。

 啓甫の様子がおかしいと気付いたのは、峯子が初めての出産を終え、ようやく一息ついた頃のことだった。
 調べると、啓甫の友人が何度も鷹谷に出入りしている。
 どうやら自分の夫が不景気株を買いあさっていると気付いた時には手遅れで、景気の回復と共に株は急騰、啓甫はあっと言う間に大資本家になってしまった。
 これに味をしめた啓補は、家族を省みることなくさっさと鷹谷家を飛び出し、本格的にサイドビジネスに取り組み始めた。
 ただでさえ周囲の反対を押し切って結婚した手前、恥までかかされた峯子の怒りは想像に難くない。
 かくして啓甫は、峯子を含む鷹谷の人間全員と絶縁状態になってしまったのだった。





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