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「かみさまの木」

白い手紙の謎G
「さとっちゃんてたまにえらいことしよるよな。前に自転車旅行に行った時もそうやった」
「……そんなこと、あったっけ」
 照れた様に小声で返してきたが、幸里が忘れている筈がない。

 今から二年程前、松之助が東京に遊びに行った時のことだ。
 幸里の従兄弟の誘いで、知人友人集まっての自転車旅行をしようじゃないか、と言うことになったのである。
 なかなか日本に馴染まなかった自働車に対し、自転車は明治二十年以降国内で次第に普及し始め、民衆の間では身軽な行楽として親しまれる様になっていた。
 町では貸自転車屋なるものが繁盛していたし、地元の大阪でもしょっちゅう友達を誘って自転車旅行をしていたから、松之助は喜んで誘いに乗ったのだ。
 ……問題はその後、ついでにと声を掛けた幸里が、喜んでこれに賛同した点にあった。
 両親にせっつかれて嫌々幸里と遊んでいた頃のことである。まさか幸里が本気で自転車旅行を喜ぶとは思わなかったから、松之助はすっかり困惑してしまった。
 自分が誘った以上、問題が起これば全てこちらの責任になる。
 これは自転車旅行ではなくなったと溜息をつく松之助に、けれど幸里は、平然と従兄弟やその友人達と一緒に自転車旅行を満喫した
 松之助は幸里を見直した。
 寝付いてばかりで青白い顔色をした幸里は、病弱を理由にすぐに倒れる様な弱虫ではなかった……運動神経だって他に劣っている訳でもなし、何より初めて乗った自転車を操るまでに見せた我慢強さ、負けず嫌いな面が松之助を喜ばせた。
(思ったより骨がある。これやったら遊びに行く時、仲間に入れたってもええな)
 しかし自分の考えの甘さを思い知らされたのは、その夜のことだった。
 新居家執事から鷹谷家に直接入った「幸里が倒れた」との連絡に、母親と陸市と3人で駆けつけた松之助は、新居伯爵家の御殿と呼ばれる広々としたお屋敷を動き回る数名の医師と、その関係者の数とにぞっとした。
 松之助はてっきり自転車旅行の件で呼ばれたのだと思っていたが、幸里はその話を一言も詠子夫人に洩らしていなかった。
 タカレンの製薬に携わることもある峯子に薬の処方について訪ねること、それが呼ばれた理由で、陸市と松之助はただのおまけだったのだ。
 枕元に現れた松之助に、幸里は酷く申し訳なさそうな顔をした。そうして周りに居る医師達に聞こえない様こっそり耳打ちしたのだ。
「今日は凄く楽しかった。今までの中で、一番楽しかったよ。だからまた誘ってね、その時はこんな風にならない様に気を付けるから」
 ……頑丈に育った松之助にとって、病気の二文字はほとんど馴染みのない言葉である。
 だからこれまでは深く考えもせずに、病人には健康を怠る弱さと、すぐに倒れる自分への甘さがあるのだと思っていた。
 けれど弱々しく笑う幸里を見て、初めて気付いたのだ……もしかしたら、病を得て一番辛いのは他でもない、その当人なのかも知れないと。
 健康ではない者が頑張るのは、松之助が思う以上に我慢の要ることなのに違いない、と。
 幸里は一度も弱音をはかなかったが、自分の思い通りにならない身体を持つのはどんな気持ちのするものだろう。
 病は何も当人のせいで起こるものではなく、健康であろうと努力しても寝台から離れられない人間は確かに存在するのだ。
 勿論、病弱さを美化するつもりは毛頭ないが、自分の様に病の人間の弱さを蔑むことがどれだけ愚かしいのかを、松之助はようやくにして悟ったのだった。

 以来松之助は、東京を訪れた時にはずっと幸里の側で過ごす様になり、そうして共に過ごす時間が長くなるにつれ、ますます幸里と親しくなった。
 幸里はこれまで松之助の周囲に居なかった種の人間で、年頃の子供にしては博識だったし、機転も利き、周りへの気遣いがとても上手だった。
 その反面、倒れるまで我慢して自転車旅行を決行したり、今回の様に遺体があることを確認する為に夜中の庭に出てみたりする無茶な面も持ち合わせていた。
 軟弱に見えて、嫌なことは嫌だとはっきり断る矜持もある。
 松之助にとって幸里は、びっくり箱の様な存在なのだ。

「せやけど参った、あの封筒どこで無くしたんやろ。もしかしてその逃げた人影が置いて行ったんかも知れへんかったのになぁ……」
「昌子見つけたんて、お前かっ!」
 不意に怒声が上がって、松之助と幸里はぎょっとした。
 封筒を隠す為に扉に背を向けていたので、背後の気配に気付かなかったのだ。
 慌てて振り返った先、病室の入口には仁王立ちする六条章太の姿があった。子供とは到底思えないぎらぎらした目を真っ直ぐ幸里に向けている。
 咄嗟に危険を感じて間に入ろうとした松之助に、けれど章太少年は荒々しくそれをかわして幸里の寝台に駆け寄ると、
「ええから答えろ、昌子見つけたんお前か!?」
「そう、だけど……」
「嘘やろ」
 叩きつける様な意地の悪い声で、章太は言った。
「嘘なんやろ。昌子見た言うんも、見間違えただけやろ。逃げる犯人なんかほんまは見てへんねやろ。そないな話したら皆びっくりする思て、言うただけなんやろ。そうやろ!」
「阿呆ぬかせ! お前みたいなガキとちゃうんや、さとっちゃんは嘘なんかつかへん!」
「……ご免ね、章太君。見間違いではないと思うんだ。警視庁の人も、確かに昌子さんだろうって報告を……」
 どうやらまたよそで喧嘩でもしたのか、新たに傷が増えたその顔に朱色をのぼらせると、章太はいきなり幸里に飛びかかった。
「わっ」
「嘘や! 嘘や! 嘘や、この嘘つき!」
「さとっちゃん!」
 ぎょっとして間に入った松之助は、途端章太のもの凄い力に阻まれてひっくり返りそうになった。
 眼光もそうなら力も並ではない。
 それでもめちゃくちゃに暴れる章太の身体に背後から飛びつき、何とか寝台からひっぺがそうと努力していると、ようやく騒ぎを聞きつけた村井刑事と和田文子看護婦とが病室に飛び込んできた。
「何しとる!」
「あ、幸里さん! ちょっと、誰か来てぇっ」
 怒鳴り声と文子の悲鳴にも章太の力は弱まらず、しかし村井刑事に抱え上げられると、さすがにあっさり寝台の外に転がされた。
「何やこの騒ぎは! ……あっ、おい!」
 そのまま章太を捕まえようとした村井だったが、僅かな隙を付かれてあっさりと逃げられてしまう。
 そうしてすばしこく病室を飛び出した章太は、騒ぎを聞きつけて集まった看護婦と刑事の数人を突き飛ばしながら、飛ぶ様な速さで階段を駆け下りて行ったのだった。





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