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「天涯比隣」
- <其の十一>
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- 炎をまとい、瀕死の状態になった植物は、その長い身体を先程までとは違う不安定な揺れに任せ、今にも前のめりに倒れそうになっていた。
太公望と普賢は、黙ってその様子を眺めるしかない。今にも動こうとした二人に植物が声を掛けたのは、その行動を制する為だ。助けるなと伝えたくて、最後の言葉をかけたのだろう。
それなら二人には、もうどうすることも出来ない。
苦しみながらも抵抗することなく耐え続けている植物の妖精を、ただ見守ること以外には。
だがしかし、何もかもが終わろうとしていたその時、ただ一人だけこの状況に焦っている者がいた。
宋徳である。
(畜生。この化け物、何で抵抗しないんだ!? このままじゃ皆をここに連れて来た意味がなくなっちまうじゃねえか!)
そもそも宋徳の目的は、里延と化け物との関係を無理にも暴き、更に里延達兄妹を邑から追い出してしまうことにあった……それなのに化け物は、虫の息になっている今でさえ、少しも里延に助けを求めようとはしないのだ。 里延の方も、化け物を庇うどころか遠慮なしに槍で攻撃し続けている。これでは里延を追いつめるどころか、化け物退治の英雄に仕立て上げることになってしまう。
(そんな馬鹿なことがあるかよ。斗朴が死んだのはあのガキのせいなんだぞ!?)
しかし、里延の勇敢な戦いぶりに、既に邑の男達の見方は全く違った物になっている。
現にその様子を睨んでいる宋徳に気付いた為だろう、それまで里延を詰る側に居た筈の邑の仲間が、火矢の補給の合間にこう洩らしていた。
「気持ちは分かるが、諦めろよ宋徳。里延は化け物とは何も関係ねえ、あれを見りゃ分かるだろう?」
冗談じゃない、と思う。こんなことが許されてたまるか。
(こうなったら)
宋徳は新たな火矢を弓につがえた。それを真っ直ぐ、化け物と闘っている里延へと向けてぎりりと弦を引く。
(どさくさに紛れて、あいつを)
悪鬼の表情で更に強く弦を引く宋徳。やがて火矢は、まっすぐ里延に向かって、
……放たれた。
ひゅん、と音を立てて里延に向かう火矢。それは一寸の狂いもなく里延の頭を狙っていた。
咄嗟に立ち位置から矢の存在に気付いた普賢が宝貝を使って無効化しようとしたが、それより早く、巨大植物……炎を受けながらも未だ燃え残っていた植物の妖精が、ぐらりと体勢を崩して里延の方に身を乗り出した。
すべては一瞬の出来事だった。ざくっと言う生々しい音と共に、頭部と思われる植物の茎、里延の放った槍のすぐ真横に火矢が突き刺さる。
普賢の、宝貝を操作しようとした指が止まった。
太公望も動きを止めてその姿を見つめる。
やがて植物の妖精は、宋徳の火矢を受けたのを最期に、ぐったりと岩場に崩れ落ちた。
「ば、化け物が死んだぞ!」
「やった! 俺達の勝ちだ!」
わあっと歓声がまき起こる。その中でただ一人、植物の奇妙な動きを見ていた宋徳は、呆然としてその場に膝をついた。
既に弓は地面に転がり、矢は一本も残っていない。
無傷のまま植物の最期を見つめている里延の姿を視界に捕らえながら、宋徳は、今見たばかりの光景をまざまざと思い返した。
「そ、そんな馬鹿な……」
植物が偶然里延の方へと倒れ込み、火矢の道を塞いだ……宋徳の目に映った『真実』はこうだった。
しかし、あんな偶然が、果たして起こり得るものなのだろうか?
呆然としたまま動けずにいる宋徳の肩を、その時ぽんと叩く者があった。
ぎょっとして顔を上げると、そこには真っ青な顔色の邑の仲間が一人、立っている。
「何をしたんだ、宋徳」
「……え?」
「お前、今、里延に向かって火矢を放たなかったか!?」
その声に、周りにいた男達が驚いてこちらを振り返った。宋徳はもはや真っ白になった頭の中で、言葉を失ってぱくぱく口を動かすしかない。
俺は何をしたんだ? 里延を殺そうとした。だけどそんなつもりじゃなくて、ただ、里延の奴をこらしめてやりたかったんだ……。
「違う、違うんだ皆。俺は里延を……そんなつもりじゃ」
「いいや。俺は見ていたぞ、たまたまあの化け物が倒れ込んできたから良かったものの、あのままなら真っ直ぐ里延に当たっていた!」
騒ぎが大きくなる。やがては化け物退治の喜びに飛び回っていた連中までもが集まり始め、宋徳は黙ってうなだれるしかなかった。
……さて、この騒動の輪の外で、まさか里延は自分が火矢で狙われていたとはつゆ程も知らずに、ようやく倒れた化け物の残骸の前で荒い息をつきながら立っていた。
すぐ側には太公望と普賢真人の姿があるが、その二人の脳裏にはもう、植物の妖精の声は届いてこない。
「仙道さま。これで、良かったんでしょうか」
やがて呟かれた里延の言葉に、太公望達が顔を上げる。
「良かったとは、何がだ?」
「何だか俺、この化け物が、最後には全然抵抗しなかった様に見えました。あれって仙道さまが暴れない様にしててくれたからですか? それに……それに俺、変な話なんですけど、ようやく化け物が退治されたって言うのに、少しも嬉しくないんです。こんなこと、皆には言えないけど」
太公望も普賢真人も、いかに外見年齢より遥かに長い時間を生き、様々な修行を積んだ身であるとは言え、人の心を読むことは出来ない。
しかしこの時の里延の思いだけは、二人には手に取る様に分かる気がした。
……お化けさん、かわいそう。
そう言った妹の言葉が、今の里延の心に重く響いているのだ。
或いは後悔と言う二文字の言葉が、少年の心を沈ませているのだろうか。
「仙道さまになら分かりますか。俺達は、間違ったことをした訳じゃないですよね?」
「化け物を退治せねば、おぬしらの邑はいつまでも被害を受け、ことはおぬしの濡れ衣と言う問題だけに留まらなかったであろう。わしとて何が正しいとは簡単には言えぬが、しかしこうしなければ、事態は解決せなんだことは確かだの」
「だけど」
「ま、いずれにせよ、わしらは桃園を破壊した罪滅ぼしくらいの働きしかしておらぬ。わしらではあの化け物の説得は無理であったと言うことだ。これらは全ておぬしらの力で勝ち取った平和、これからも大切にせいよ」
「は……はい!」
頷くと、ようやくの笑顔になって仲間達のもとに駆けて行く里延。
その後ろ姿を見送りながら、やがてしゅうしゅうと音を立てながら消えていく植物の妖精の前で、普賢真人がそっとしゃがみ込んだ。
「望ちゃん」
「うむ」
普賢の手の中には小さな花がある。今にも枯れそうな弱々しい花、先程まで巨大植物として火矢を受け、太公望達に話しかけていた、植物の妖精の原型である。
「月日を過ごせば、また力を取り戻すこともあろう。完全に死んだ訳ではないが、邑の者は皆、退治に成功したと思うたであろうな」
「……望ちゃん、邑の人達が急に現れた時には、随分びっくりしてたみたいだったけど」
周りの人々の目に入らない様に花を袂に隠しながら、普賢は優しく微笑んだ。
「本当は、最初からこうなることを予想してたんじゃないの? あの時宋徳さんが外で立ち聞きしてたことにも、望ちゃん気付いてたじゃない」
「何を言う、わしはそんな先々まで見越せる様な千里眼ではないわ。元始天尊さまじゃあるまいし」
ぶつぶつと文句を言う太公望に「どうかな」と呟き、そのまま小さく笑いを洩らす普賢。
横目でその様子を眺めていた太公望は、やがてたらりと汗を流し、素早く話題を変えた。
「そ、それで、その花をどうするのだ普賢。このまま仙人界に連れてゆくのか、もはやただの花に過ぎぬものとしてこの森に放置して行くか」
「それなら、もう考えてるよ」
にっこり笑って答えた普賢真人に、この時、太公望はいかにも不審そうな視線を向けたのであった、が。
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