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「天涯比隣」

其の一
  どこまでも続く雲の海。月明かりを浴びて煌々と輝くその表面に、ぽつんと浮かぶ小さな丸い 影があった。

 重力に反してふよんふよん、と、いささかのんびり過ぎる速さで地上に向かう物体……当然ながら、 飛行機も気球も存在しない古代中国で、それははっきり言って異様な光景である。

 そうして更に奇妙なことに、その丸い影の上には、更なる二つの影が乗っているのだ。

 大きな丸いその物体には、良く見ると身体に不似合いなほど細い四肢がついている。それからちょ こんと半円に突き出た頭部と、上空の風にたなびく黄色いスカーフも。
 二つの人影が覗くのはその申し訳程度についた頭部であり、どうバランスを取ったものか、彼らは そこから振り落とされることなく、悠々と空中飛行の途にあるのだった。
 やがてそれは、月明かりを受けて雲母のようにきらめく雲海の中に、ずぼりと身を沈ませていく。 しばらくの後に雲海の厚みを抜けると、今度は夜闇の広がる下界の様子が、黒々とその眼下に浮かび上がってきた。

「月明かりがないと、良く見えないね」

 呟いたのは、頭部にしがみつく人影の一つ。頂上部分から僅かに下を覗き込んだ姿勢で、彼はほんわかと 微笑んだた。
 今は暗くて良く見えないが、その声の調子からすると、どうやら彼は未だ歳若い青年らしい。ぽつりと 洩らした呟きだけで、彼の性質の穏やかさが伝わってくるような、そんな優しい声をしていた。

 彼の見下ろす先には、肥沃な平原から急勾配でそそり立つ、高山の広がりがある。
 恐ろしく入り組んだ山脈や、天にそそり立つ高山、中程の高さの山まで、この地方には驚くほどに山が 多く、日中空の上から眺めると絶景なのだが、下手に目測を誤ると急な斜面にぶつかってしまう。
 だから、彼の最初の呟きは景観を惜しむものではなく、当然ながらここに掛かっている訳で……隣にいる 同年代の青年も、当初の青年の呟きに「うんうん」と頷いていた。

 いつもなら青々と目に美しい高山の風景も、雲海に月明かりを阻まれた夜の暗闇の中では、一層深く暗く 歪む影にしか見えない。
 時折ぱっくりと開いた濃い闇が眼下を過ぎ、目が慣れると、それは山脈の切り立った崖であることが分かる。
 丸い異様な物体に乗ったまま空の上を移動する二人の青年は、久し振りに見るその暗い光景に、思わずほう っと溜息をついた。

「……で、普賢。おぬしは一体どこに向かっておるのだ」

「西に」

「西? では西岐だの」

「うん。なるべく人の居ない場所の方が良いと思って、この大極符印でポイントを絞ってみたんだ。宝貝を 使うから、間違うと大変なことになるしね。とりあえず首都圏からうんと離れた場所に降下するつもりだよ」

 怪しい丸い影、宝貝ロボ・黄巾力士に乗った二人の名を、それぞれ太公望、普賢真人と言う。共に天空に 浮遊する仙人界・崑崙山に住まう仙道である。

 現在(いま)より遠い昔、未だ地上が神話時代を送っていた頃。人間達が生活する地上より遥か天空に、 ごく特殊な、地上とは異なる世界が存在していた。
 仙人界、と呼ばれたそこは、元々特出した能力を持つ人間達が修行・鍛錬を積む為の場であり、その者達を 一括して仙道と呼んだ。このうち未だ修行中の身が道士、修行を終えて道を修めた者が仙人である。
 空に浮かび上がったその世界では、地上世界とは特例を除いてほぼ干渉し合わぬことを暗黙の了解とした、 実に独特の生活形態が生まれていた。既に別天地と言って良い。

 さて、その干渉し合わぬの人間界に、何故二人の仙道が向かっていたのか。これには話せば長く……もない、 滅茶苦茶安易で簡単な事情があったりなんかするのだが……。

「にしても便利だのう、その宝貝は。修行を積んでおると、仙人に昇格して弟子をとらねばならんだとか色々と ダルいことが多いが、宝貝が貰えるっつー話だけは羨ましいのお」

「望ちゃん、宝貝が欲しいの?」

「そりゃ欲しいに決まっとる。宝貝があれば楽して力が出せるでのう、仙道の必須アイテムではないか」

 そう。要するに二人は、貰ったばかりの宝貝のお試し使用の為に人間界に向かっていたのである。

 さて、ここで説明が必要になるだろう。宝貝。この字を以てパオペエと読む。これは仙道の元来の力を増 幅させる秘密兵器のことで、使い手の体力と精神力を吸い取って奇跡を起こす道具である為、余程の能力者でなけ れば与えられることのない、いわば丸秘アイテムであった。
 そのため宝貝は、おおよその場合、道士でなく仙人に与えられるのだが、これは決して上がケチっている 訳ではなく、力がなくては肝心の宝貝を使いこなせないからだった。
 勿論、修行次第で道士が宝貝を貰った例は数多いから、これは目安の様なものであったのだろう。

 共に仙人界に弟子入りした太公望と普賢真人であったが、仙人として昇格したのは普賢が先であった。 つい先日その知らせを受け、更に師匠から頂いたばかりの宝貝・大極符印の力を試したいと話した普賢に付き合い、 太公望はつい先ほど、崑崙山を普賢と共に出発したところなのだった。

 しかし、現在仙道としてほぼ不老の身にあるとは言え、太公望も普賢真人も元は人間である。眼下に広がる 人間界の景色に溜息するのはその為でもあり、時折師匠である元始天尊をだまくらかして移動用の宝貝・黄巾力士を 盗み(仙人界はものすごく空高くにあったので、翼を持つ仙道でもない限りは簡単に人間界に下りていけないのだ) 内緒で人間界に遊びに行くのもそこに理由があった。
 二人共、元始天尊にスカウトされて仙人界入りして以降、人間界との関わりを断ったとは言え、やはり故 郷である人間界に興味が向いてしまうのは仕方ない。勿論これは異例である。

 ちなみに、スカウト。と言ったが、仙道が人間界に関与する正当に承認された『例外』の一つが、このス カウト制度にある。
 言うまでもなく、これは仙人に昇格した者が弟子を見つけ出すことで、仙人達はそれぞれ地上に居る人間 の中から『仙人骨(仙人になる素質)』の持ち主を探し出し、有望な者に熱心に「ねーねー俺んトコの弟子になん ない?」と話を持ちかけるのである。
 中には無理矢理さらって来て弟子にする超強引な仙人もいた様だが(封神演義・原作参照)これは仙人骨を持つ癖に スカウトもれされると、えらい超人間が生まれてしまう為で、仕様がないっちゃー仕様がなかった。
 つまり互いの関係を遠ざけた仙人界と人間界とは、根本的には同じ土壌から生まれたものであり、仙道が人間の中 から生まれる以上、その関わりを完全に断つことは難しかった……と言う訳である。

 でもって話を元に戻すと、普賢真人はようやく仙人に昇格し、そもそもが崑崙山の教主である元始天尊を師に持つ エリート組であった為、通常崑崙の最高幹部クラスに与えられると言う飛行宝界ロボ・黄巾力士を自らの宝貝と共に授かっ ていた。
 つまりはこれまで師のソレを拝借せねばならなかったところを、自分用の黄巾を使って自由に人間界に降り立つこと が出来る様になったのだ。

 ちなみに太公望も普賢と同様、未来を有望視された元始天尊の直弟子である。ただちょっとばかし修行に手を抜いて いただけで、エリートと言えばエリート組な筈なのである。

「しっかしのう普賢。その宝貝とやら、崑崙山で使う訳にはいかんのか」

「崑崙だと対象になるものが少ないから。この大極符印はね、望ちゃん。物質の元素を操る宝貝なんだ。だから物質の 多い地上の方が試しやすいんだよ」

「それは何ともおぬしらしい宝貝と言おうか……しっかし、黄巾があるとやはり便利だの」

 未だ道士の立場にある太公望は、時折仲間の白鶴童子の翼を借りて地上見物に出掛ける以外に人間界に降りる術を持たない。
 太公望が欠伸をしながらそんなことを言うのに、普賢真人はふっと微笑み、両手に握った宝貝・大極符印を見下ろした。
 球状のそれは存外に大きく、精密な機械片の様なものが中心から表面に向けて重なり合っているのがうっすらと見えている。

「望ちゃんだって真面目に修行を積めば、すぐに仙人になれる筈だよ。元始天尊さまだって言ってたじゃない。うたた寝 なんかしてちゃ修行にならないんだから」

「それがダルいと言うておる。なーんでわざわざ自力でしんどい思いをせにゃならんのだ、第一何十年も空の上で暇しとっては、 寝たくもなるわい」

「……暇してる訳じゃないと思うよ」


「ま、わしはラク出来ればそれで良いのだがな」

 ふぁーっと、この日何度目かの欠伸を続ける太公望に、普賢はまたもや微笑み混じりの視線をついっと向ける。

「望ちゃん、最初は誰よりも修行に熱心だったのにね。三十年足らずで仙人級の力を身につけて、皆を驚かせていたけど……」

 含みのある言葉に、それまで黄巾力士の上でほとんど「雑技団かい!」と突っ込みを入れたくなるほどのバランスで寝そべっ ていた太公望は、何となく眉を潜めてがばっと身を起こし、目の前ののほほんとした親友の顔をひたと睨んだ。

「おぬし、何か企んどらんか?」

「別に、どうして?」

「どうもおかしいと思うとったのだ。急に人間界に誘いおって、単に宝貝を試しに下に降りたい訳でもなかろう。おぬし、ほんっ とーの目的は何なのだ?」

「宝貝の性能を見るだけだよ。他に何があるんだい? 望ちゃんがあんまり暇そうに岩場でうたた寝していたから、誘ったんだけど」

「うむうううう……ほんっとーにそれだけかのう」

「嫌だなあ望ちゃん、考えすぎ。そんなことより、」

 がしがしと親友の身体を揺さぶった後、今度は一人不審げな視線を向かわせる太公望に、普賢はほんわりと笑みを浮かべ。

「何じゃい」

「望ちゃんがさっきあんまり揺らしたから、ほら。黄巾の調子が」

 普賢の言葉と同時に、二人を乗せた宝貝ロボの体勢が激しく傾いた。がくんと身体を斜めにしながら、太公望は思わず青くなる。

「な、何いっ!? 普賢、しっかり操縦せんかいっ」

「そうは言っても、オートにしてなかったし。あれ? どうだっけ、分かんなくなっちゃったなあ」

「あれっておぬし……落ち、落ちとるではっっって、ぎゃぁぁぁぁあああっーーー!!!」

 太公望の絶叫と、状況に動じていない普賢ののどかな声とを残して。

 腹部に『普賢』と銘打った黄巾力士は、次の瞬間、まっ逆さまに地上に向かって落下して行った。




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