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「天涯比隣」

<其のニ>
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 紀元前11世紀。舞台は古代中国、黄河の下流(現在の河南省)に栄えた殷王朝の時代の物語。
 時に第三十代皇帝・紂王(帝辛)が、首都・朝歌を中心とする大小様々な邑から成るこの殷を治めていた……つまりは殷晩年の時代である。

 紂王と言えば、後に放蕩の限りを尽くして商王朝最後の王となった悪名高き人物であるが、実はその即位直後の頃は、元来の才能と機知に富んだ性質から民草より親しまれた、名君の誉れ高き王であった。
 物語はこの頃、つまりは紂王をその美貌で誑かし、人々を恐怖の底に突き落とすこととなる仙女・妲己が、どこかにひっそりと身を潜め、これより始まる闘いを前に静かに力を蓄えていた、そんな頃のお話なのである。


 事件は某年某日のとある夜更けのこと、王都から離れた黄河中流域の農耕村落(小邑)で重苦しい雰囲気をまとった男達が、次々と集会場の天幕に集まっていたことに端を発する。
 正確にはこれより数カ月前から始まっていたのだが、全容は後に語られる為、この場では割愛することとして。

 この時集会場に集まった男達の数は十数名。小邑ゆえ、ほぼ邑中の男達が集まったと言って良い大人数であった。
 そうして彼らの誰もが、この小邑で起こった不気味な事件について、ほとほと困り果てていたのである。

 この難解な事件とは一体何なのか。そのあらましを語る前に、まず簡単な状況説明をしておく必要がある。

 ……そもそも殷とは、王城のある首都を差す大邑、血族集団を中核とした大集落を差す族邑、数十人程度の小集落である小邑、の三つから構成される国家をさして言う。
 こうした集団を統括したのが紂王で、いわば殷は、小さな島の集まりを総じて国とした様なものであったのだ。
 故にこの当時、中央の朝歌から離れた場所に作られる最小単位の集団・小邑では、必然的に独自の生活体制が整えられていた。これは言うまでもなく直接の王の支配の手が地方まで届かなかった為で、故にこの小社会では、起こった事件のほとんどが中央に伝えられることなく終わり、大抵は邑内で解決されていたのだった。

「王都には、大変な力を持つ道士さまがいらっしゃると言う。ご相談してはどうだ」

「殷の大師さまだな。しかし、それ程の御方に、こんな小邑の問題を持ち込んでは……」

「ちょっと待ってくれ。今はそんな無駄話をしている場合じゃないだろう、これ以上邑に被害が出れば、桃園を捨てて逃げ出さなきゃならないんだぞ! はっきり言わせて貰うがな、こいつさえ追い出せば、それで話は済むんだぞ!?」

 邑の集会場の天幕の中。
 集まった男達は次第に熱を帯び始めた議論に、興奮の面もちで唾を飛ばし、声高に発言していたのだが。
 しかしそのうちの一人が中央に立つ若い青年を指差して怒鳴った途端、中に居た男達のいずれもが、はっとした様に顔を強ばらせた。

「この邑で妙なことが起こり始めたのも、もとはと言えばこいつが原因じゃないか。遠慮することはない、こいつを村から追い出しちまえばいいのさ!」

 指差され、詰られた少年は、僅かに顔を紅潮させながら俯いている。見ればまだ十四、五程度の、小柄で実直そうな面立ちの男子なのだ。
 下ろした両手が拳となり、ふるふると震えているのは、怒りを堪えている為なのだろう。事実彼はとても憤慨していたし、我慢もしていた。俯いているのも、怒りのやり場に困っていたからなのだ。

「止せ、宋徳。今回のことで気が荒れるのは仕方ないとしても、里延を責めるのはまったくの見当違いではないのか。現に里延は、三度もあの化け物を追い返しておる。お前の畑が無事だったのは、この里延が槍を持って化け物を迎えうった為ではなかったか」

 けれど。
 誰もが無言で男と少年とを見比べる中、不意に邑長と思しき老人が二人の間に割って入った。まろび出たその姿に、さしもの男もぐっと言葉を呑む。

「落ち着くのじゃ、皆の者。これでは話し合いにもならぬぞ」

「じ、じゃあ聞くが、こいつ以外の誰に非があるって言うんだ!? 少なくとも、この俺でも他の連中でもない。化け物のことだってそうだろう、これまで俺達が何をしても無駄だったのに、こいつが出た途端に逃げ出すなんて……逆に怪しいじゃないか!」

「確かに、斗朴のことは不審だな……」

「しかし最初にやられたのは里延の羊だった」

「あれは化け物とは関係ないだろう」

 ざわざわ、と、一度は静まった筈の天幕の中が再び騒然となった。
 最初でこそ控えめに仲間の非を口にはしなかった男衆も、宋徳、と呼ばれた男の異論をきっかけに、ぼそぼそと里延少年に疑いの言葉を向け始める。
 そのざわめきに、やがてきっと顔を上げて衆人を睨んだのは、当の非難の的となっている里延だった。

「……俺が邑を出て平和になると言うなら、ここを離れる。だけど妹は別の邑までの移動に耐えられないだろうし、一人きりで残して行く訳にもいかない。だから、」

 言葉を切ると、里延は唇を噛んで、再び俯いた。

「だから、今度あいつが出たら、俺が何とか退治してみる」

「里延!」

 彼を庇っていた老人が弾かれた様に叫んだが、里延の表情は変わらなかった。元々この天幕に呼ばれた時から、覚悟を決めていたのだ。
 やがてくるりと老人に向き直ると、里延は深々と頭を下げて、言葉を続けた。

「その代わりって訳でもないけど、妹のことはお願いします。この邑から追い出さないでやって下さい。あの化け物がまた邑を襲う様なら、すぐにも俺が出て、退治します。命に代えても、もう邑の皆には迷惑はかけないつもりです」

「里延、お前、そんな無茶な……」

「へえ、お偉いもんだなあ、里延。たった数回化け物を追い返した位で、凄い自信じゃないか。それとも最初から全部計算ずくか?」

 老人の慌てふためく声と、宋徳の嘲笑混じりの声とが重なった。はっと顔を上げると、そこには宋徳の、里延を馬鹿にした様な顔がある。

「英雄にでもなるつもりか。化け物がいなくなりゃ、誰もお前を追い出そうとは考えねえもんなあ」

「俺はあんな化け物なんて知らない。斗朴のことは、大変だったと思うけど……でも俺は本当に何も知らないんだ!」

「よせ、宋徳!」

 次の瞬間、宋徳は里延の首根っこを掴み上げていた。緊迫した空気が二人の間に流れ、周りの男達が慌てて止めようとしたものの、それより早くに、宋徳は拳を高く振り上げていた。

「年長者にはきちんとした言葉の使い方ってもんがあるんだぜ、里」

 ずっざーーーーっ、どしゃん!

 と言う、物凄い音が辺りに響き渡り、あまつさえ、天幕に集まった男衆達が目をむく程の地響きが伝わってきたのは、その時だった。



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