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「天涯比隣」

<其の三>
 一同は今にも殴り合いを始めそうな宋徳と里延のことも忘れて、さっと顔色を変えた。
 今の音は何だ? 何か巨大な物が上から落ちてきたような音だった。
 男達は無言のまま顔を見合わせると、言葉にせずにそれだけを思い、次の瞬間には一斉に天幕から飛び出していた。
 その反射的な動きは、ここ数日続いた奇異な事態が、いかに彼らの神経を逆撫でしていたかを予想させる。

「またあいつが出たんだ!」

「女子供が家に残ってる。注意しろ!」

「桃園の方から聞こえたぞ。畜生、あそこを荒らされてたまるかっ」

 口々に叫びながら走り去る一同。その様子に宋徳も、我に返って里延の首根っこを掴んでいた手を放した。
 途端、身動きの取れる状態に戻った里延は、反射的な速さで邑長の立っていた天幕の壁に駆け寄ると、まるで飾りの様にそこに掛けてある青銅の槍をさっとつかみ取った。

「お、おい……」

「化け物は俺がやっつける。証明してやるよ、俺があの化け物とは無関係だってこと!」

 一声叫んで、里延は天幕を飛び出した。

 ……邑の外れにある桃園の桃は、普通の野生のそれとは違い、独特の甘さと香りを持った貴重な果実である。
 元来は移動を中心とした生活を送る小邑の里延達が、ここ数年、居住区を替えない理由がそれだった。気候の為か土地柄か、頬が落ちるほどに美味しいこの桃は、里延達の食料源であるだけでなく、邑の数少ない収入源でもあるのだ。
 その桃園を荒らされては目も当てられない……ここ数日続いた災難を思い出して、男達は身震いした。
 最初に羊がやられて、次は田畑の食物が腐ってしまった。
 それからは直接邑の人間の天幕を潰されたり、化け物が現れた拍子に食料を滅茶苦茶にされたり、死人や怪我人まで出て。
 これ以上、化け物に好き勝手させる訳にはいかない、何としてもここで被害を最小限に留めねばと、今し方まで続いていた集会での議論の内容は、専らそうしたものに終始していた。その矢先のこの地響きである。

(もう駄目かも知れない)

 桃園に向かう中、男達の誰もが最初はそう思った。思って、いたのだが。

「……何だ、これは」

 しかし一同は、駆けつけた桃園の前で足を止めると、怯えた目つきで辺りを見渡した。遅れて到着した里延も同様、立ち止まって呆然とする邑人達の背中に気付くなり、

「どうしたんだ? やっぱり、化け物が出たのか?」

 意気込んで槍を構え、人の壁の隙間から桃園を覗き込んだものの、そこに広がった光景に、これまた続いてぽかんとしてしまう。
 桃園は、確かに荒れていた。その意味では邑人達の予感は的中してしまっていたことになる。しかし、その原因となると、これが何ともはや。

「化け物……じゃ、ないよなあ?」

 広がる桃園の真ん中に、巨大な丸い物体が沈んでいた。
 つるつると光沢のある球体の表面は真っ黒で、ひょろっとした縄の様な四つのでっぱりを持っている。それから半円球の頭が一つ。もしかしたら四つのでっぱりは手足なのかも知れないと思わせるその姿は、いずれにせよ、邑人達の理解の範疇を大きく越えた物体であった。

 大体何でこんなものが桃園のど真ん中に落ちているのだろう?

 ぷうん、と甘く匂うのは、その物体の下敷きになって潰れた数十個の桃の香りである。辺りに充満する魅惑的な匂いに、里延がようやく我に返って一歩桃園の物体に近付いた途端、今度はその丸い物より少し離れた位置で、怒りに満ちた声が上がった。

「ふげーーーんっ! おぬしはわしを殺すつもりかっ!?」

 ずぼっと桃の枝や葉をまき散らして立ち上がる姿。それは、人、だった。やたらじじむさい口調ではあるが、二十歳前の青年と言った風貌をしている、明らかに人間だ。
 それから罵声の向けられた場所にも、人影が一つ……そちらに居るのもやはり年若い青年で、何故か頭に丸い輪っかをつけ、更にその両手にはあやしげな球体を持っていた。
 状況を考えてもこれは相当慌てるべき場面である筈なのに(現にもう一人の方は滅茶苦茶慌てている)青年のその顔には、穏やかな微笑が浮かぶばかり。

(こいつらは一体、何者だ!?)

 人影を認めて、ようやく男衆の間に緊張が走った。普通ではない状況に、しかし少しも気付いていないのか、二人は妙なテンポで喧嘩を続けている。

「大体ちょーっとよそ見をした位で、何で墜落せにゃならぬのだ! こんなことやっとったら普通は死ぬっつーの! ……って、おおっ。もしかせんでもここは桃園ではないかのう!?」

「そう言えば望ちゃん、桃が大好物だったよね」

「ああっ勿体ない! 黄巾のお陰で大量に潰れておるではないか」

「って、こら待てあんたらっ、一体何者なんだ!?」

 余りにもボケボケな二人の様子に、誰もが言葉を失う中。
 なかなかのタイミングで突っ込みを入れることに成功したのは、唯一立ち直りの早かった里延だった。
 と言うより、これでは口を挟んだ、と言った方が正しいのだろうが……そんな訳でようやく第三者の視線に気付いた二人は、自分達が大勢の男衆に囲まれていることを知ってきょとんとした。
 ちなみにこの二人の正体は、言うまでもなく太公望と普賢真人である。

「あれ? 望ちゃん、何だかギャラリーが多くない?」

「ふむ、どうもまずい所に落ちたらしいのう」

「落ちた!? 落ちたって、どこから……」

 そこまで言いかけて、里延がはっと口ごもった。続いてこの様子を静観していた男達も、急に目つきを変えて顔を見合わせると、今度は里延を押しのけ、二人の側に素早く駆け寄って行く。

「まさか、あんたら……」

「って言うかあなた様方は、」

「仙道さまですか!?」

 一同の叫びと勢いとに、思わず後じさりする太公望。やたらと必死な邑人達の顔から、何やらただならぬ空気がひしひしと押し寄せてくる。
 何となく視線のやり場に困った太公望は、相変わらずマイペースな普賢に近付くと、困惑顔のままこしょこしょ囁いた。

「……何か嫌な予感がしてきたのだがのう、普賢」

「どうして? 桃園をこんなにしたのにみんな怒った様子もないし、気の良い人達みたいじゃない」

「おぬし、そりゃ論点がズレとらんか?」

「この邑に仙道の方が落ち……いやいや、降りていらっしゃるとは、これも吉兆。どうぞ我々をお助け下さい!」

 二人がまだ何か言う前に、男達はざざーっと揃ってその場に土下座すると、妙にハモった声で叫んだ。
 逃げる間もなく本題を切り出されて、言葉を失う太公望と、何が面白いのか相変わらずにこにこしている普賢真人。

「……は?」

「ですから、仙道の方々。どうぞ我々をお助け下さい。あの不思議な物に乗って来られた様子を拝察しても、相当なお立場にある方々とお見受けしました。貴方さまがたでしたら、きっと、あの化け物を退じることが出来るでしょう」

「はあああああ!?」

 甘い香りの満ちる夜の桃園に、太公望の素っ頓狂な悲鳴がこだましたのであった。




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