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「天涯比隣」
- <其の八>
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- 化け物(妖精)の退治・説得に失敗した挙げ句、更に居場所さえ掴めなかった状況下で。
さすがに気まずい思いで邑に戻った太公望と普賢真人は、けれど出迎えた里延の様子に、おや? と首を傾げた。
里延は二人を見るなり満面の笑みを浮かべ、今にも飛びつきそうな勢いでこちらに駆け寄って来たのだ。
「仙道さま! 薬を有り難うございましたっ」
「おお、そう言えば出掛けに言うておった薬、効能を説明しておったのだの」
「はい! 早速丸薬にして妹に呑ませましたところ、見る間に元気になって……おまけに目の方も、ぼんやりと見える様になったって」
聞けば、つい今しがたまで礼を言いたいのだと太公望達の帰りを待っていたらしいのだが、その間にはしゃぎ過ぎた為か、今は疲れてぐっすり眠っているのだと言う。
だから俺が妹の分もと、里延は初めて見る様な笑顔で何度も二人に礼を言った。
「仙道の方は、ありとあらゆる効能をもつ薬を作ることが出来る、と聞いていましたが、本当に凄いんですね!」
「処方箋を書いたのは普賢だがのう。わしは薬の調合には明るくないのでな」
「それより里延くん、僕たち君にちょっと尋ねたいことがあるんだけど」
眠っている英鈴に遠慮して天幕の外で話そうとしたのだが、戸外では冷えるからと里延に促され、結局一同は中に入って話を続けた。
奥の寝台で眠る英鈴は驚くほど安らかな寝息をたてており、その顔色も辛そうな赤みを失い、呼吸をするたびに健康的な光を取り戻していくようだ。
しばしその様子を見ていた太公望は、やがて「うむ」と小さく頷くと、再び里延に視線を戻した。
「実はのう、里延。聞きたいことと言うのは、例の妖……化け物のことなのだ」
「あっ! そ、そうでした。済みません、俺英鈴が元気になったのが嬉しくて、つい」
ぽかんと化け物のことを忘れていたらしい。太公望と普賢真人に任せておけば、と言う安心感があったにせよ、何ともおおらかなことだと二人は苦笑した。
「それで、化け物はどうなりました!?」
「それが途中で見失ってしもうたのだ。しかしおおよその居場所を探ることは出来たので、ここは事件のあらましをもう一度聞いた上で、確実にあやつの居所を見つけようと考えたのだ」
「話、ですか。はい。何でも聞いて下さい!」
化け物を逃がした、と聞いて僅かな落胆の色を見せた里延だったが、太公望と普賢真人の落ちつきに再び落ちつきを取り戻し、すぐに頷いてくれた。
「だけど僕に話せることなんて、昨夜の話以外には何も……」
「なに、悪いが最初からもう一度、詳しく説明してくれれば良いのだ」
はあ。と呟いて虚空を見つめると、里延は指折り数える様にして説明を始めた。
「まず……邑の斗朴って人が、森で化け物に襲われて……」
「その斗朴とやらは、おぬしが以前羊を死なせた件で、自分の羊も巻き込まれたと因縁をつけておった男だの?」
「あ、はい。あの時はいつも通りに羊を放牧地に連れて行って、後は岩場に腰掛けてたんですけど……急に一番遠くに居た羊が倒れたんで、俺、びっくりしてそっちの方に駆け寄ったんです。そうしたら、今度はあちこちでばたばた羊達が倒れていって……てっきり病気か毒のせいじゃないかって思ったから、近くで放牧していた斗朴さんに、こっちに来るなって叫びました。それなのに」
「斗朴さんの羊も、何頭か死んじゃったんだね」
普賢の言葉に、こくり、と頷いて里延はうなだれた。
「その後、羊達の死因が毒のせいだってことになって、大切な羊を死なせたのは俺だって斗朴さんが怒り出したんです。もともと俺、よそものだったから、邑の人達の中にはあんまり良く思ってない人も居るらしくて……それで斗朴さんが中心になって、俺を邑から追い出す様に邑長さんにかけあってたらしいです。そうしたら、その肝心の斗朴さんが今度は森で襲われたんで、中には俺が化け物を操ってるんじゃないかって疑う人までいて」
「ほう」
「特に斗朴さんと仲の良かった宋徳って人は、絶対に俺の仕業だって言って怒ってて。それで俺、何としても皆を説得しなきゃと思って、化け物退治を考えたんです」
後は以前の説明通り。
化け物は斗朴を襲った以降、今度は邑に現れる様になり、あちこちの天幕や田畑を壊し始めたのだと言う。
「一つ聞くがのう、里延。化け物が襲った天幕や田畑の中には、その宋徳とか言う男のものもあったのか?」
「……はい。と言うより、森の近くにある天幕のほとんどは潰されたから、今では皆、邑の中心に住処を移動させてるんですけど。あの、仙道さま。貴方まで俺が化け物を操ってるって思ってるんですか?」
宋徳の無事を確認したのは、自分を疑っている為だ。そう判断したらしく、里延は僅かに顔を紅潮させて太公望を見上げた。
「でも俺、本当に何も知らないんです。あんな化け物を見たのは初めてだったし、斗朴さんのことだって、恨んでなんかなかった。あの時、俺がもっときちんと羊を逃がす様に言ってたら、巻き込まずに済んだんじゃないかってずっと悔やんでたんですから……だから、恨むなんてとんでもないです」
「い、いや、別に疑っておる訳ではないよ」
太公望が焦って言うと、普賢も、
「うん。言い方は悪いけど、わざわざ自分に不利になる様な状況を進んで作る人なんている筈ないし、きっと皆も冷静になれば、すぐに分かってくれるよ」
と、何だかフォローなのか何なのか良く分からないことを言った。
「そう言えば里延くん。君、森の奥にある滝のこと、知ってる?」
そのままさらっと尋ねた普賢に、途端、里延はきょとんとして首を傾げた。
「ええ……勿論。邑の人間なら誰でも知ってますよ、井戸水の調子が悪い時には、あそこから水をもってくるから」
「その滝の付近で、何かおかしなものを見なかった?」
今度こそ、里延は目を丸くして二人を眺めた。
「特には……見てないと思いますけど」
「何でも良いのだがの。見たのではなく、例えばいつもと違うことをした、とか言うのでも良いのだ」
「…………お花」
身を乗り出して尋ねた太公望に、けれど返事は意外な場所から返ってきた。
いつの間にか目を覚ましていた英鈴が、寝台の上からじっとこちらを見つめて、呟いたのだ。
「へ?」
「お花。お兄ちゃん、綺麗なお花を摘んだって」
「あ、ああ」
ゆっくりと身を起こして、今度は寝起きのものではない、はっきりとした言った妹に、里延はようやく何かを思い出した表情で太公望と普賢真人を振り返った。
「そう言えば……滝の裏側に空洞があるんですけど、前に一度だけその中に入ったことがあったんです。その時、空洞の中に一輪だけ綺麗な花が咲いてるのを見て、こんな薄暗い場所じゃ可哀想だろうって外に植え直したことがあった……」
「それだ!」
思わず立ち上がる太公望。
それからちらりと天幕の入口を見ると、今度は何事もなかった様に再びその場にしゃがみ込んだ。
「うむ。これで何とかなりそうだのう。その植え替えた場所、どこだったか覚えとらんか?」
「大体の場所なら分かると思いますけど。でも何なんですか? まさかその花が化け物の正体だなんて……ことはないですよね?」
「勿論違うよ。化け物を探す手がかりではあるんだけどね」
さらりと流した普賢に、む、と太公望は視線を泳がせた。
「……まあそう言うことだ。もう一度出直すので、今のうちにその花の植え替え場所を教えといてはくれんかのう」
「はい。それ位なら、すぐにでも」
言いおき、まだ何かいいたげにきょろきょろ二人を見つめる里延。
しかしこれをあえて無視すると、太公望と普賢真人とは、ちゃっかり森で見つけてきた桃を懐から取り出し、二人並んでもぐもぐと食べ始めたのであった。
*****
天幕の外でじっと身を潜めていた宋徳は、中の会話が途切れたのを合図に、忍び足でその場を離れた。
呼吸さえ堪えて天幕から遠ざかると、ようやく樹木に手をつき、荒い息を繰り返す。
「……見てろよ里延。必ずお前の化けの皮を剥がしてやる」
やがて不気味に呟くと、宋徳は急に駆け足になり、邑長の居る天幕へと急いだのだった。
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