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「弥彦編」

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「み、水澤先生……」
 呆然と、誰もが眼前に現れた人物に驚きながら、その名を呼んでいた。反射的に動きを止めてしまった誠一も同様、父の姿に我が目を疑う表情を向けて、
「親父」
 呟き、そのまま力無く刀を下げた。
「何でここに……」
「これだけ騒がしいのに、私が気付かぬ筈があるか」
 寝起きとは到底思えない眼力で、禄助は息子を睨んだ。
 その視線はすぐに抜刀された刀へと移り、禄助の表情を更に厳しくさせる。
「何の真似だ、誠一。勝負に敗して我を失い、こんな無様な所業を成したか」
「…………」
 口惜しそうに俯く誠一。
 弥彦は黙って二人の様子を眺め、道場の外では禄助を恐れた門下生達が薫の後ろにしゃがみながら隠れている(とは言え道場からでは、窓の下でうずくまる姿などは見えない筈だが)。
「全くもって情けない。腕を上げても性根は曲がり切っている。お前、恥ずかしくはないのか。弥彦君は自分を偽らずに竹刀を持った。勝敗の結果にだけ左右され、己の力を過信する愚か者との何たる違いか……お前が負けた理由はそこにある。卑しい心の持ち主の振るう剣に、勝機が宿ろうか」
「……ああ、そうだよな。俺は卑しいし、こんなガキに負ける様な情けない人間だよ。親父が一番嫌いな人間だよ」
 低い呟きが誠一の唇から洩れた。ん、と禄助の厳しい表情が動く。
「いつだってあんたはそうだ。枠を作って俺をその形に押し込もうとする。少しでもはみ出せば許せないんだ。だって俺は、あんたの思う通りに動かなきゃいけない都合の良い息子なんだからな!」
「何を言っているんだ、誠一。お前は」
「ずっと言いたかったことだよ! 俺に愛想を尽かした様だから、この機会に言っといてやるさ。あんたがどんな理想を持とうが関係ない。俺は俺なんだ。親父の作った理想の通りには生きられない、努力したって追いつけない。なのにそんな時、親父はこう言ったよな。お前は努力が足りない、何故すぐに諦めるんだって。だけど、だけど、俺に最初からなかったものを引きだそうとしても、無理なんだよ!」
 もはや、禄助は言葉を失っている。否、誰もが何も言えずに居る中、誠一は溢れ出た言葉を止めることも出来ずに叫び続けた。
「こいつみたいな息子なら、あんたも満足だったんだろうよ、ええ? でも、俺は、俺だ。親父が認めなくても、これが俺なんだ。親父の理想じゃなくても、これが俺なんだよ……!」
 しん。とする中で、薫は向き合う親子から目を離すことが出来なかった。
 息子に跡を継いで貰いたい。きちんと形にはしなかったが、ぽろりと薫にこぼした禄助の本音の欠片。
 けれど肝心の息子は道場にも寄りつかず、剣術を馬鹿にしている。
 しかし、違ったのだ。どこでどう間違ったのか、この親子はこれまでずっと互いに心の内を伝えることも出来ずに過ごしてきた。
 こいつみたいに、と言いながら誠一が指差したのは、弥彦だった。薫もふと思い出す、昼間禄助が弥彦のことを誉めた記憶。
 それを耳にした誠一は理想の自分に近付けずに悶々と過ごす毎日の中で、どんな思いを抱いたのか……何となく、理解出来る気がした。
 彼が欲しくてたまらずにいたものを、弥彦は簡単に手に入れた。父親に認めて貰うこと。父親の理想にはなれないけど、努力を認めて貰うこと。だから弥彦が許せなかった。
 誠一は最後の言葉を叫び終えると、荒い息をつきながら再び俯いた。
 やがて沈黙にいたたまれなくなったのだろう、一度きり父親の姿を見ると、その横を通って道場を去ろうとする。しかし。
「待ちなさい。誠一」
 低い声に呼び止められて、ぴくりと足を止めた。
 ちょうど、父親の真横で。
「……私は、お前に理想を押しつけていたのか」
 変わらぬ低い声で禄助は呟いた。
 しかし、誠一は答えない。その声に僅かな悲しみがこもっていることには、気付いていたのだろうか。
「結果にだけ左右されていてたのは、私も同様だったな。お前の努力を見ても、確かに結末ばかりを気にして誉めたことなど一度もなかった。しかしそれは、お前の成長を願ったからだ。少しの後悔もない様に、お前の力の全てを引き出してやりたかった……」
「……俺には、そんな力なんかない。はじめっから」
「いや。今の勝負、確かに私はお前の卑しさにかっとなったが、それだけではない。以前にも増して返し技が上達していた。打ち込みも、払いも、稽古に顔を出さずにあれだけの上達を見せるとはと、正直驚いている。あれは確かにお前の力だろう」
 皆の立つ位置からでは、真剣さの中に父親の顔を覗かせる禄助と、俯き加減で居る誠一の背中しか見えない。父親よりも頭四つ分は高い彼の背は、僅かに震えている様だった。
「もう一度、稽古に顔を出してくれ、誠一。私にはお前の力が必要だ。理想も、剣術も、関係ない。お前自身が必要なのだ」
 誠一は……何も答えなかった。答えられなかったのだ。
 短い沈黙の後に、誠一の肩が再び大きく揺れ始めた。
 やがて嗚咽をこぼし出した息子の肩を禄助はゆっくりと掴むと、ただ黙って、何度も何度もその肩を叩いた。繰り返し、何度も何度も。
 誰もが何も言えぬまま、その光景を黙って見守り続けていた。





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