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「弥彦編」

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 次にそれに気付いたのは、彼の師匠でもある神谷活心流師範代・神谷薫だった。



「弥彦。さっきからずーっっと気になってたんだけど、その傷どうしたの? 練習の傷じゃないわよね、朝見た時より明らかに増えてるし」
 夕食時。
 赤べこから戻った弥彦と並んで剣心の作った(とは言え神谷道場の食事はほとんどが剣心の手によるものだったが)夕食の並ぶちゃぶ台を前にした薫は、頂きますの合図と同時に、箸を置いてそう切り出した。
 既に魔法的な速さで茶碗の中の米つぶの半分を呑み込んでいた弥彦は、その言葉にぎょんと目だけを茶碗の影から覗かせる。
「んん?」
「……真剣に話してるんだから茶碗置きなさい。弥彦、あんたまさかとは思うけど、また何か面倒事に巻き込まれてるんじゃないでしょうね?」
 薫の厳しい顔と、その隣で何事が起こったのかと様子を眺める剣心に、弥彦はしばらくの間沈黙していたものの。
「うっせー、ブス」
「んまっ……! 何ですって、もう一回言ってみなさいこのっ!」
「お、落ち着くでござるよ薫殿。弥彦も、そんな意味のない喧嘩を売るものではないでござろう」
「意味も何もブスにブスって言ってるだけじゃねーか。大体ブスな上に説教癖まであるなんざ、嫁の貰い手ねぇの確実だな」
「っっ弥彦ーーーっ! あんたいい加減シメるわよっ! 剣心、竹刀持って来てっ」
 思わず青ざめて後ろから薫を押さえる剣心。目の据わりようからして薫はかなりマジである。
 しかし弥彦は珍しくそれ以上の喧嘩を売ろうとはせず、ただ黙々と食事を続け始めた……事ここに至ってようやく、剣心の方も弥彦の様子に不審を抱く。
 弥彦の癖。それは答えに窮した時に、やたらに関係のないことを持ち出したり、薫を挑発したりして話を逸らすことなのだ。
 特に薫に対しての「ブス」なる言葉は、答えを口に出来ない時に登場する必殺業もしくは十八番的台詞なのである。
 最近では余り口にしなくなったと思ったが、久々にこれが登場したとなると……。
「弥彦、本当に何もないのでござるな? その怪我が赤べこで負ったものとは思えぬし、お主が無意味な喧嘩を外で行うとも思えぬ。薫殿は心配しているのでござるよ」
「……薫の心配ってのは、俺がよそで人様に怪我をさせてないかってことだろ。心配ねえよ、俺だってこう見えても神谷活心流の一番弟子だぜ」
 ぱくぱくぱく。
 薫が協力した唯一の夕食、切れていない沢庵を器用に箸で三切れ取ると、弥彦はそれを口に放り込んであっさりかみ砕き、おもむろに呟いた。
「この怪我はちょっとした不注意だ。別にお前らに心配かける様なことは何もねえよ」
「ナマ言ってんじゃないわよ、馬鹿! どうでもあんたはこの道場の一番弟子、心配するのは当たり前でしょう!?」
 いつもなら言い返される位の勢いで叫んだ薫に、けれど弥彦は再び沈黙。仏頂面で残りのご飯を全部平らげてしまった。
「んじゃ、俺素振りしてくる」
「ちょっと待ちなさい! 弥彦、こらーーーっっ!」
 勝手に立ち上がってさっさと道場に歩いて行く弥彦に、薫は慌てて声を掛ける。
 けれど弥彦はひょこひょこ廊下を歩いて行ってしまって、こうなると薫も、何となく憤りのやり場を失ったまま不本意そうに剣心を振り返るしかない。
「け、剣心からも何とか言ってやってよ。あいつってばほんっとーに、私のこと、師匠だなんてこれっぽっちも思ってやしないんだからっ」
「お、おろ……」
 真剣にがっかりしている薫の様子に、剣心は困惑したていで弥彦の消えた道場の入口をひょいと覗き見た。
 やがて廊下に向かって一言。
「……弥彦ー。少し休憩してからでないと、食後すぐの稽古は消化に悪いでござるよー」
 ばきっ。と薫の拳が炸裂した。
「そんなこと言って欲しいんじゃないっ」
「おめーら、あんまり騒ぐんじゃねぇよ。メシがまずくなっちまう」
 どいつもこいつも……と、怒りが冷めるどころか益々ひきつってしまった薫に、けれどその時、更に神経を逆撫でする様な声が脇手から飛び出てきた。
 ぎょっとして振り返ると、いつの間に現れたのか、つい今しがたまで弥彦の居た場所にちょこんと座る人影が一つ。
 ちゃっかり釜びつから、残りのご飯のほとんどを弥彦の茶碗によそっていたりした。
「さっ、左之助っ!? あんたいつの間に……って言うか、何勝手にご飯食べてるのよっ」
「まあそうカタいこと言うなって嬢ちゃん。困った時はお互い様だろ。それより今日はえらく荒れてるじゃねえか。弥彦の奴がどうしてぇ?」
 着物の後ろに悪一文字を背負った長身の青年。
 言うまでもなく神谷道場のただ飯食らいの名をほしいままにする男が、今夜の夕食の残りを全てたいらげようとする悪魔の正体だった。
 まだ食事途中だった剣心と薫は、一瞬の後に背筋が凍る程の危機を感じ取り、思わず自分達のおかずを素早く避難させる(笑)。
「あ、危なかったぁ」
「おいおい。幾ら俺だっておめぇらの分位は残しておくって」
「左之。食事時に来るのなら、事前に連絡しておいてくれないと困るでござるよ」
「……事前に連絡してても余分な食料はウチにはないんだけど」
「まぁ、んなこたぁ置いといて、だ。今の騒動の原因ってのは一体何なんでぇ?」
 どうも話が弥彦と夕食の間をいったりきたりしている。
 薫ははっとして、再び道場を振り返った。
「そうなのよ! 何か弥彦ってば、様子がおかしいの。顔や腕にあちこち傷を作ってきて、何があったのか尋ねても答えないし」
「へえ……」
 ちらり、と左之助は身体を伸ばし、廊下から道場を振り返った。
 既にそちらからは弥彦の素振りの声が聞こえていたのだが、やがて左之助は身体を反らせたまま、
「別に心配する程のことでもねぇんじゃねえか? 俺があいつ位の頃なんざ、生き死にの賭かった怪我は日常茶飯事だったぜ」
「何かそれも間違ってる気がするでござるな」
「とにかく、しばらくの間は様子見てりゃ良いんじゃねえか? どうせあいつのこった、真正面から理由聞いても、素直に答えねぇだろ」
 それもそうか。と内心頷きつつも、薫はやっぱり得心がいかない。
 と言うのも彼女の一番弟子であるあの少年は、以前にも皆に内緒で、厄介ごとに巻き込まれた過去があるのだ。
 あれは弥彦がある目的の為に赤べこに通い出した頃のことだった。練習時に姿を消す様になったと思いきや、いつの間にか赤べこで働き始めており、更に同時期に務め出した少女の為に、数人の男達相手の大勝負に出る羽目になっていたのだ。
 弥彦は子供じゃない。いや、子供だけど、いつも見張っていなければならない程幼くはない。
 この道場の門下生になる以前から、身内を失い、本来ならば与えられるであろう保護の一切をなくしたまま生きることを余儀なくされていた少年なのだ。
 だから、と言う訳でもないが、弥彦にはむしろ自分などよりずっと大人かも知れないと思える一面だってある……けれど。それでも、なのだ。
(相談されないって言うのは、やっぱり寂しいものなのよね)
 溜息を一つつくと、薫はとぼとぼと食事を口に運び始めた。
 食事は何故か味気なく思え、途中横手から隙を狙って伸びた左之助の箸をぴしゃりとはたきながらも、道場から聞こえてくる弥彦の気合いが、最後まで気になって仕方がなかった。






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