弥彦編index > 4

「弥彦編」

<4>
「水澤?」
「ああ、その名前に聞き覚えはねぇか?」
 その日の夕暮れ。
 何だか妙に考え込む様な風情で現れた左之助の問いに、薫は首から下ろした手ぬぐいで汗を拭いつつ、首を傾げた。
 ちなみに今は夕食前の稽古中で、呼び出された薫は竹刀片手で左之助に上がる様に言ったのだけれど、彼は珍しくこれを辞退。自然二人は玄関で会話をする形となっている。
 後ろの道場では、薫の言いつけで今日習ったばかりの振りの練習をしている弥彦の姿がある。何故だか左之助はそちらをひょいと眺めると、
「つい最近だと思うんだが」
 小声になって、そうつけ加えた。
「ま、覚えがねぇなら良いんだけどよ」
「……水澤、かぁ。水澤さん。何処かで聞いた気が……あ!」
 しばし考え、薫はぱちんと両の手を打ち鳴らした。
「思い出した。この間の出稽古先の、道場主の方の名前が確か、その水澤さんよ」
「道場主?」
「宮内先生の紹介で初めて行った隣町の道場でね、とっても良くして頂いたのよ。よその道場に比べて子供が多い場所だし、弥彦にも良いんじゃないかなと思って。これからも懇意にして頂くつもりなんだけど……でも何で左之助がそんな事聞く訳?」
「まぁちょっと私用でな。で、済まねぇがもう一つ。その水澤さんとやらには、弥彦と同じくれぇの年のガキはいなかったか?」
「ガキ、って」
 目をぱちくりさせて、首を傾げる薫。
「確かに一人、息子さんが居たけど……でも確か、年は弥彦にって言うより私の方に近い筈よ。今年十五だって聞いたもの。私達が稽古をつけて貰ってる間には一度も道場に来てなくて、だから顔までは分からないんだけど」
「……成程ね」
 うん、と一人納得している左之助に、薫はいよいよ不審顔になって式台の上から身を乗り出した。
 すぐ前に居る左之助の顔は段差のお陰でそんなに高い位置にはない。
「なに? 弥彦と関係のあること?」
「へ。何でぇ、そりゃ」
「だって」
 躊躇いながら、薫は背後を振り返る。
「さっきからずーっと道場の方を気にしてるじゃない。だから……あっ、まさか弥彦の喧嘩の相手って!」
「薫殿。もうそろそろ夕食が出来るでござるよ……おや? 左之」
 その時。問いつめられて何となく後ろに背を逸らしていた左之助と、何としてでも話を聞き込もうと意気込む薫の前に、前かけをした剣心がひょいと現れた。
 いつ見ても気が抜ける光景だよなあとがっくりきつつも、薫の詰問から逃れられたことだけは感謝してみたりする左之助である。
「何かあったのでござるか。ちなみに左之助の分の夕食は用意してないでござるよ」
「それはあったり前っ」
「いや、今日は別件で来たんでぇ」
 さらりと流したが、勿論心中では話ついでに夕食をかすめ取る魂胆である。
「で。その別件と言うのは」
 ところが今度は剣心に尋ねられて、左之助はほんの一瞬だけ躊躇してしまう。
 今更な気もするが、事情を確かめもせずに見たままを話すのもアレだし、そもそもは自分で事情を確かめ、面倒なことになっている様なら、その時初めて薫や剣心に話すつもりだったのだ。
 しかし、ここまで話して途中で話題を放置しては、肝心の夕食をかすめ取る手段がなくなってしまうし……。
 夕飯を取るか、状況を考慮するか。
 先日「放っておけ」と言った手前何となく情けない気もするのだが、そろそろ腹の虫が鳴り出す頃合でもある。やっぱりまあ良いか。などと、結局左之助は腹をくくって顔を上げた。
 勿論「それじゃ話は奥でゆっくり」と座敷に上がり込んで、そのままちゃぶ台の周りに陣取るつもりでいたのだが。
 思わず、左之助は目を細めた。自然に上がった視線の先に、道場で一人、型の練習を続ける弥彦の横顔が映ったのだ。
 眉を寄せて懸命に単調な動きを繰り返す姿……それを見た途端に、するんと言葉がしぼんでしまった。
(……余計な節介焼くなんざ、俺のガラじゃねぇか)
 そうして。いやに長い沈黙に、薫と剣心が次第に不審顔になってきた頃、左之助はぽりぽりと頭を掻くと小さく一言、
「いや。やっぱ今日は銀次の所でメシ食うわ」
 謎の言葉を残して、そのままふらりと出て行ってしまった。
 後に残された薫と剣心は、ぽかんとして左之助の背中を見送るしかない。
 って言うか別件の内容を尋ねた後の答えが何でそれなんだよオイ!? 状態だ。
 一体何がどう話が繋がっているのかさっぱり分からないながらも、しばしの間お互いに頭を悩ませ、やがて出た結論は。
「左之助ってば、やっぱり夕食目当てでここに来てたのね!?」
 ……ある意味当たっているだけに悲しい。
「しかし妙でござるな。いつもなら遠慮無く勝手に部屋に上がり込んで食べる男が」
「あ。そう言えばさっき気になること聞かれたわ。出稽古先の道場主さんの名前出されて」
 正確には、その息子のことを尋ねられたのだ。弥彦と年の近い子供は居るのか、と。
 はっきりと弥彦の怪我絡みの話だと言った訳ではないが、しかし昨日の今日だからして、やっぱりことは弥彦絡みの様に思える。
 さて、肝心の弥彦はと言うと、結局あれから怪我が増えることも、不審なこともないまま無事に過ごしている(様に見える)。
 この分なら問題はないだろうと何となく安心していたところだったのだが、こうなると俄然心配の度合いは再度急上昇。思わず腕組みになる薫である。
「明日行ってみようかな、その道場に」
「いや。別に薫殿が動く必要はないでござろう。左之が途中で黙ったのなら、恐らく差し迫った問題がある訳でもないのだろうし……何よりあの男のこと、いざとなれば話すべきことをきちんと説明してくれるでござるよ」
「もう……前の燕ちゃんの時は一緒になって事情を探ろうとした癖に、今回に限ってあーんな態度なんだから」
「あの男、あれで弥彦を認めているのでござろう。弥彦は拙者達が思うよりずっとしっかりしているでござるからな、何より拙者達が下手に首を突っ込むと余計に問題が大きくなるかも知れぬし」
 左之助が弥彦を認めている。それを聞いて、薫は口をつぐんでしまった。
 弥彦を認めているのは左之助だけじゃない。剣心だって今こうして、弥彦に信頼を寄せる口調で薫を留めている。
 だけど本当は薫だって、弥彦を信頼していない訳じゃないのだ。
 ただ、どうしても放っておけないだけで……。
(案外無茶する子だから、心配なのよっ。それだけ)
 こう言う気持ちになるのは私だけなのかなあ、と溜息をつきたくなる薫である。あんまり考えたくはないけれど、剣心も左之助も弥彦も男で、だから女には分からない繋がりだとか共通する何かだとかがあるのかも知れない、と。
 別に女だからどうと言うつもりはないし、それを言い訳や理由に使うのは大嫌いだけど、でもやっぱり、こんな風に伝わらないことや分からないことがあると切なくなる。
 弟子であり、弟分でもあり、同居する家族でもあり。
 弥彦の存在はものすごく微妙で、考えてみれば薫の周囲に居る人間達は、全員が不思議な縁で繋がっている。
 だからこそ薫は、周りで何かあるごとに不安になったり悩んだりするのだけれど、でも剣心や左之助はそうじゃないのだろうか。
 不安定な、理由のない繋がり。
 逆に、それ故の信頼を寄せることが出来るのなら、本当に凄いことだと思う。
(……あーあ。何か我ながら情けないな)
 これでは確かに、弥彦に師匠と思われていなくても仕方ない。
「薫殿?」
「えっ。あ、何?」
「いや、夕食が出来るので、そろそろ練習を切り上げてはどうかと。風呂の支度も出来ているし、先に湯に入るなら味噌汁を暖めるのは後にしようと思ったのでござるが」
「う、うん。そうね。弥彦を呼んで来るわ、あの子もそろそろ腹ぺこだろうし」
 頷いて台所に戻る剣心。しかしその背中を見送りながら、薫は突如むむむと眉を寄せてしまった。
 腹ぺこと言えば、いつもなら食事時になる前から「腹へったー」とうるさかった弥彦が、ここ最近では呼ばれるまで練習を続けていることが多くなった。
 いいや、それだけじゃない。以前にも増して練習熱心になったし、その熱心さも普通じゃない気がする。これまでは「感心感心」と喜んで、余り深く考えてはいなかったのだが。
 こうして悩み出すと次第に止まらなくなってくる。
 薫はぶんぶんと首を振った。我ながらここまで心配するなんて重症だ。弥彦の練習熱心さとて、単に向上心が増した結果なだけかも知れないのに。
 ……この後、様子に気付いて「おう、メシか?」と言いつつ道場から出てきた弥彦が、一人頭をぶるぶる振り続ける薫の姿に首を傾げたことは言うまでもない。





page3page5

inserted by FC2 system