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「弥彦編」

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 このところの天候は変化が激しい。
 昼間はぽかぽか陽気だった筈なのに、突然思い出した様に冬の名残を引き戻し、急に冷え込み始めた夕刻。食事の席に集った神谷道場の面々は、互いに物思いにふけりながら黙々とご飯を口に運んでいた。
 いつもなら騒がしいとまではいかなくとも、何がしかの話題で盛り上がる筈の食事の席が、今日はただ箸を動かす音や器を台の上に戻す音しか聞こえない。
 ちなみに左之助は知人との約束があるからと早くから道場を後にし、ちゃぶ台を囲むのはいつもの通りの薫、弥彦、剣心の面子である。
「……何かあったでござるか?」
「え?」
「うん?」
 剣心の恐る恐るの問いかけに、ようやく顔を上げる薫と弥彦。
「いや、何か今日は妙に静かでござるから」
 ぼおっとしている薫と、何か思い詰めた様な風情の弥彦。
 上の空の原因はそれぞれ違っていたが、どうもこう静かだと剣心の方まで調子が狂ってしまう。
「き、今日の煮付けは少し辛すぎたかも知れんでござるな」
 また沈黙が訪れてしまったので、聞かれてもいない内から話題を作ろうと、剣心は精一杯の努力の末にそんな言葉を吐いた。のだが、誰からも返答はない。
 空振りに終わった会話の糸口にがっくりと肩を落としながらも、剣心は今話題にのぼらせようとした辛すぎたかも知れない煮付けを口に運んだ。
「ごちそうさん」
 そうして。仕方ないからこちらも無言のまま食事を続けていた剣心に、いち早く食事を終えた弥彦がひょんと立ち上がった。
 茶碗や器を台所に運ぼうと立ち上がったその姿に、今度は薫が顔を上げて、
「ねえ、弥彦。貴方……」
 呟き掛け、途中で口ごもった。
「貴方、もしかして、」
「な、何だよ」
 物言いたげな薫の視線に、弥彦はどぎまぎした様子で僅かに表情を崩す。
 けれど見事、その表情も一瞬の内に押し隠してしまうと、今度は平静を装って薫るを見つめ返した。
「もしかして、何だ?」
「…………ううん。ご免、やっぱり何でもない」
 淡く笑って答える薫。不自然なその態度に弥彦は束の間口を開き掛けたのだけれど、結局は何も言わず、すぐに茶碗のひと揃えを手に台所に走って行ってしまった。
 先に寝る、と言う早口の言葉だけが、ぽんと部屋に投げ込まれる様にして残される。
 再び沈黙が座敷に訪れた。
「き、今日はやけに早い内から寝るのでござるな、弥彦は」
「剣心。正直に答えてね」
 しかし。弥彦を見送っていた剣心に、返ってきたのはいやに冷たい薫の声。
「おろ?」
「本当は事情を知ってるんでしょう。弥彦、水澤先生の息子さんと喧嘩中で、果たし合いか何かをするつもりなのね?」
 思い切り、全部が推測だったのだけれど。
 それでも薫が考えに考えた推測の結果がこれなのだった。左之助が口にした水澤の名、傷を作って帰ってきた弥彦の様子、それに最近になって必要以上に稽古に励む姿と……それだけを組み合わせて考えただけで、実はほとんどカマを掛ける状態で剣心に言ったのだ。
 けれど、
「はて、何のことでござろう?」
 あっさり返されて、薫は口ごもった。
 最初から、多分引っかかってはくれないだろうなと予想してはいたのだが……見かけからは想像もつかないけれど、薫よりうんと人生経験の豊富な彼には、こうした技はあんまり通用しないのだ(どちらかと言うと薫の方がいつも引っかかってしまうパターンなのである)。
 こうなれば仕方ない。開き直ればこちらだって滅法強いのだ、とばかりに薫は奥の手を出すことにした。
「……今日ね、剣心にはああ言われてたんだけど、やっぱり心配になっちゃって……それで水澤先生の道場にお邪魔したの。それで息子さんの誠一君のことを尋ねて来たんだけど、いろいろと引っかかることがあって……」
「おろ。客でござるよ」
 しかし。薫の懸命の言葉は途中であっさりくじかれてしまった。
 剣心が庭を覗きながら呟くその声に、思わず「ごまかさないでっ」と怒鳴り掛けた薫も、反射的に振り返った先にぽつねんと映った姿に気付いて言葉を呑み込む。
 そこには赤べこの店員、三条燕が立っていたのだ。
「つ、燕ちゃん? どうしたの、こんな時刻に」
「弥彦なら今、向こうにいるでござるが。呼んで来ようか」
「いえっ。違うんです、今日はその、弥彦君じゃなくて、薫さんや緋村さんにお話が」
「私達に?」
 玄関口から、剣心の声にゆっくりと庭沿いの式台に近付いてくる燕は、ひどく怯えた様子でいる。どうやら弥彦に気付かれぬ様にと遠慮していたらしく、座敷に薫と剣心の姿しかないことを認めた途端に、ほっと緊張の糸を解いた。
「非常識な時刻にお邪魔して、本当に申し訳ありません。でも、もう時間がないと思ったら、いてもたってもいられなくて……」
「何? 何かあったの、燕ちゃん」
「私じゃなくて、弥彦君なんです。あの……数日前から弥彦君、色々とおかしくて。怪我をしてきたり、泥まみれになってたり。それで私、弥彦君と話がしたくて、今日のお昼に店を抜けて、帰る途中の弥彦君を追いかけたんです。そうしたらその時」
 燕の話では、こうだ。
 昼過ぎになってようやく店に余裕が出来た頃、午前中の仕事を終えて帰って行く弥彦を追いかけた燕は(妙さんにきちんと了承を取ってからですけど、と燕)、店を出た途端に二つ目の筋で弥彦を見失ってしまった。
 慌てて辺りを探していると、ようやく土手近くで複数の子供達に囲まれる弥彦の姿を見つけたのだと言う。
「私、びっくりして……人を呼んだらきっと弥彦君は怒るだろうし、でも放ってはおけない気がして……迷っている内に、弥彦君を取り囲んでいた男の子の一人が言ったんです。今日の果たし合い、逃げ出すなよ、って。私、皆さんにお知らせすべきか迷ったんですけど、やっぱり話しておくべきだと思って」
 迷ううちに、こんな時刻になってしまったのだろう。
 申し訳ありません、とどこに繋がるとも分からない謝罪の言葉を口にした燕に、
「き、今日!?」
 薫は思わず叫んでしまっていた。すぐに剣心が口を塞いだけれど、それはまだ奥に弥彦がいる為だ。
「でも、今日って言っても、もうこんな時間よ」
「夜更けに出て行くつもりでござろうな。しかし薫殿、」
「何!? やっぱり剣心、薄々事情を知ってたのね!?」
 言動とその落ち着きとに、原因に思い当たった薫はむっとして剣心を睨んだ。二人のその様子に燕はおろおろとしている。
「……こんなに早い内に寝る理由は、夜更けに果たし合いに行く為だったのね……それで相手の名前は? 燕ちゃん、分かる?」
「ええと……さわ、の付いた名前でした。さわ。伊澤じゃなくて、小澤じゃなくて、」
「水澤?」
「あ、はい! 確かにその名ですっ」
 これでもう間違いない。
 ことこうなっては最早ごまかす術さえ失って、剣心は一人「あっちゃー」と言う顔になっているが、その横では薫が憤然とその場に立ち上がり。
「分かったわ、燕ちゃん。後のことは心配しないで。大丈夫だから」
「だ、大丈夫、ですか」
 思い切り良く受け持たれて、燕は少々面食らってしまった。と言うより薫の後ろでまずそうな顔をしている剣心の様子がかなり気に掛かるのだが……とりあえずは一人抱えていた問題を薫や剣心に相談出来たので、少しだけ心が軽くなっている。
 本当ならこのまま弥彦の様子を見ていたい位だったのだけれど、薫と剣心とに説得されて、ひとまず燕は家に戻ることになった。
 弥彦が気付かぬ内に戻った方が良いし、あんまり遅くなると親が心配するだろう……ひどく不安げな様子の燕にもう一度だけ声を掛け、そのまま剣心に送られて夜道に消えていく姿を玄関から見送りながら、薫は一人「むんっ」と気合いを入れた。
(どうしてあんなに剣心と左之助が事情を隠そうとするのかは分からないけど、夜中の果たし合いなんて尋常じゃないわ。ここは私が後をつけて見届け役にならなきゃ)
 こうなるとほとんどストーカーである。
 さてこの時、薫達がここまで大声を出して騒いでいたのに、奥に居た弥彦がこれに一向気付かずにいたのは、ひとえに彼が食事時に引き続き物思いにふけっていたからに過ぎなかった。
 誰も居ない座敷の、畳んだ布団の横で正座し、いつも背中に掛けている愛用の竹刀を目の前に置いて。
 じっと目を閉じる弥彦の胸には、今日の昼に左之助が口にした言葉がぐるぐると回っている。
『下手すると嬢ちゃんにまでとばっちりがくるぜ』
 ぐっと手を堅く拳にすると、弥彦は深々と息をついた。身体中の気負いを全部払う様に、やがて息をつき終えると、閉じていた目をそっと開く。
「そんなことにはさせねぇ」
 拳に込められた力の強さは、思いと決意の強さの分。
 そうして様々な思いを包み込み、夜はしづしづと更けていく。





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