弥彦編index > 9

「弥彦編」

<9>
 弥彦がひっそりと神谷道場を抜け出したのは、夜も更けきった丑ノ刻。つまりは午前2時のことだった。
(危うく眠っちゃうとこだったわ)
 眠い目を擦りながら、夜の町を駆けて行く弥彦の姿を、薫はこっそりとつけていた。
 ちなみにあれだけ物言いたげな様子でいた剣心も、結局はこの尾行に加わることになっている。恐らく、こんな時刻に薫だけを出て行かせる訳にはいかない。との配慮であったのだろう。
 勿論剣心とて、この勝負の行方について少しの興味も抱いてはいない訳ではないのだろうが……。
 水澤誠一との果たし合いとやらがどこで行われるのかまでは、薫も剣心も知らない。だから弥彦の姿を見失うと、その時点で二人はどう仕様もなくなる訳だ。
 しかし元来足の速い弥彦の後を付けるのは存外に難しく、薫が剣術で足腰を鍛えていなかったら、恐らく途中でまかれてしまっていただろう……そんな速さで駆けて行く弥彦の後ろ姿に、薫の胸中は複雑だった。
 事情が何なのかまでは薫も知らない。だけど果たし合いとなれば、今夜の勝負は当然剣術勝負になる筈だ。
(まずいわね)
 薫の危惧はそこにあった。
 弥彦は確かに強い。普通ではあり得ない様な状況にこれまで何度も追い込まれてきたし、その経験と咄嗟の機転とでそれらを切り抜けるだけの知恵だってある。相手が年長の青年だからと言って、そんなことは何の問題にもならないだろう。
 しかし。
 もし今夜の果たし合いが一本勝負であるのなら、やはり弥彦にはどうしても、不利な点が出てきてしまうのだ。
(あの子だって伊達に稽古を積んじゃいないわ。自分の欠点にも、もうとっくに気付いてるんだろうけど)
 やがて、疾走する小さな姿が水澤道場の門前に立った。あらかじめ話がついていたのだろう、入口には数人の門下生が立っていて、弥彦共々こっそりと道場の中に姿を消して行く。
「ねえ剣心。弥彦がこうなった理由って、実際のところ何なの?」
 正面から入っては気付かれてしまうので、丁度道場の脇の庭に繋がる板戸を乗り越えて中に入り込んだ薫と剣心は(思いっきり不法侵入です)、道場に入って行く弥彦と案内役の門下生達の姿を確認しながらも、こっそり言葉を交わしている。
 薫の問いかけに、けれど剣心は小さく首を傾げ、
「詳しいことは、残念ながら拙者にも分からぬのでござるよ」
「おおまかな事情なら、分かる?」
「何でも相手の暴言に弥彦が腹を立てた……と言うのでござるが」
 暴言。しかしそこから果たし合いにまで話が大きくなったのなら、それは相当な理由になるのだろう。
 だが、相手が暴言を吐いたので果たし合い、と言うのは実に弥彦らしからぬ行動ではないか。普段から無闇やたらと剣術を解決の手段に使う子ではないし、幾ら口で師匠の薫をブス呼ばわりしていようと、その態度と神谷活心流に対する心構えとは別物なのだ。
 弥彦がきちんと活心流に敬意を払い、自らの剣のあり方に誇りを持っていることは、薫だって知っていた。
 それなのに果たし合い? 暴言の内容は知れないが、それにしたって……そこまで考えて、もしかしたら弥彦の両親のことに関係があるのかも知れないと気が付いた。
 弥彦は早くに亡くなった両親のことを尊敬している。父親は彰義隊隊士として幕府に殉じて戦死し、母親は弥彦を育てる為に遊郭に入っていたと聞いたが、己の信念を曲げず、自らの大切な物を守り抜くその生き様は確かに、今の弥彦の実直な強さに引き継がれている様に思われた。
 その両親を侮辱されたと言うのであれば、弥彦が激怒して果たし合いを受けた(もしくは申し込んだ?)のだとしてもおかしくはない。
 薫と剣心とが道場の小窓から覗くと、中では既に弥彦ともう一人、長身の青年とが向かい合っていた。
 薫達のいる窓の正面に、先程弥彦を案内した門下生が立会人の様に並んで三人立っているが、いずれも緊張でひどい強面になっている。
「良く逃げずに来たもんだな、ガキ」
「果たし合いの前に小細工してくる様な馬鹿が恐いかよ」
 視線が合った途端に刺のある言葉の応酬が始まった。
 恐らくはこの長身の青年こそが水澤誠一なのだろう……弥彦を揶揄する様な斜めの視線は、こちらが不快になる程に高飛車である。
 やがて誠一は竹刀を片手に、ついと隣の門下生達に合図を送った。
「それじゃ、始めようぜ。時間をかけると親父に気付かれちまうからな。見せて貰うぜ、お前があれだけ言った神谷活心流ってヤツがどれ程のもんなのか」
 防具をつけ終えると、水澤誠一はすっと竹刀を構えた。
 弥彦も同様、素早く背中に背負った竹刀を抜き取る。
 誠一の構えは綺麗に決まっている。蔵達流が古い流派でありながら、形が整った剣と賞される所以がここにあった。
 常に刃筋を正し、形の為の形に陥らぬ様に心がける。
 見たところ、道場に寄りつくことさえ嫌うと言うこの青年も、蔵達流の型をきちんと身につけている様だ。幼少から厳しく鍛えたと言う水澤禄助の言葉がふと思い返される。
(多分、水澤先生の言葉には謙遜が入ってたんだわ。まだ構えしか見てないけど)
 それでも、分かる。水澤誠一には口先だけではない何かがあると。
 努力すれば目録どころか、既にそれに近い程の腕を持っている。
「蔵達流と言えば、確か返し技の多い派でござったな」
 さすがに詳しい。
 剣心の呟きに、薫は深々と頷いた……しかし、本当の問題はそんなことではなくて。
「おい。勝負は一本、先に取った者勝ち。で、良いよな」
「ああ。構わねえ」
(やっぱり、一本勝負か)
 唇を噛む薫。
 弥彦の強みは打たれ強さにある。左之助じゃないが、相手がどれだけの強者であろうとも弥彦は絶対に引かないし、何度打たれても立ち上がり、憤然と立ち向かって行く。
 一体この小さな身体のどこにそれ程の力がと、周りが驚く程のその気力・精神力は最終的には弥彦を見事に成長させ、剣術を習い始めてからここまで、彼は強靭的な速さで腕を上げて行ったのだった。
 しかし、真剣勝負と道場の試合とには、決定的な違いがある。弥彦は命を賭して成長して行ったけれど、それはこの年頃の少年にしては異例なまでに、真剣勝負の方の機会が多かった為なのだ。
(真剣勝負は最後に死ぬ、もしくは戦意を喪失した者が敗者となる。だけど一本勝負はそうじゃない)
 たとえ気力が残っていても。まだ勝負を挑む体力が残っていても。
 一本取られれば、その時点で勝敗が決してしまう。通常であればそれこそが自然な形であったし、弥彦とて剣術を習って一年もたたぬ身とは思えない程に実力を上げている筈なのだが、しかし相手が目録程の腕前で、更に慣れない流派であったのだとすれば……。
(ここは勝負処よ、弥彦)
 薫の顔は次第に師匠のそれへと変化して行く。隣でその様子を眺めていた剣心も、やがては口元をほころばせて道場に視線を戻した。
「はじめ!」
 立会人の門下生の声を合図に、道場で向き合う二人の竹刀が激しくぶつかった。
 力の差はほぼ互角。
 しばし竹刀が離れ、次に打って入ったのは弥彦だった。
 誠一の動きはしかし、速い。いずれの打ち込みをも危なげなく返し、隅に追い込まれる前に、最後の弥彦の突きを弾いてしまった。
 弥彦の態勢が崩れる。そこに誠一の打ち込みが入り、背中から転んだ弥彦は竹刀を横一文字にしてこれを防いだ……。
「何だ、やっぱり大したことないじゃないかっ……こんなもんで良く、あんな偉そうなことが言えたよなぁっ」
「何!?」
 誠一が身を起こして後ろに引き、その残像を追う様にして弥彦の竹刀が凪ぐ。
 ぶんと言う風音がして、二人の姿は再び離れた。
「全く……親父も良く、こんなガキに見込みがあるなんて言ったもんだぜ。そうだよな、お前が強い筈ないんだ。所詮はあんな、」
「うるせぇっ」
 言い終えるより早く、弥彦が打ち込んで行った。
 誠一の強みは返し技にあるのに、構えずに突っ込むなんて無茶苦茶だ。思わず薫が口の中で「馬鹿、引いてっ」と叫ぶのに、しかし相手の態度と乱れた攻撃とに勝機を見いだした誠一は、
「貰った!」
 一声叫ぶなり弥彦の打ちを返し、そのまま胴に竹刀を叩き込もうとした。が。
「あっ」
 叫んだ声は、果たして誰のものだったか。
 次の瞬間、弥彦の竹刀は弾かれた状態から水平に床に突きつけられ、誠一の竹刀を弾いていた。そして。
 逆に態勢を崩した誠一の隙をついて、弥彦の竹刀は、見事に斜め下からの胴打ちに成功していたのである。
「いっ、一本!」
 ぱしっ。と言う小気味の良い音と共に、門下生の声が道場に響き渡った。





page8page10

inserted by FC2 system