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「デッド・トラップ」

<9>
 幾つも幾つも重ねられた記憶の中で、ただ一つ鮮明に残るものがある。

 記憶操作を受けて、与えられた記憶より鮮明なものがあるのは不自然なことだったから誰にも話していない。
 話してしまえばこの記憶は、もう自分の中に残らない様な気がして。
(お前に名をやろう)
 光を背に呟く男の影。
 姿は、ずっと暗闇にいたナギの瞳に眩しすぎて見えない。
(凪。ナギ、と言う。お前の中でただ一つ確かな証になるものだ)
 ……組織の中で生まれたナギには名前がなかった。
 元来組織に属する人間はそれまでの名を捨て、訓練を終了させた後に授かるコードネームを名乗るものだったから、ナギが名を持たないのは、むしろ当然のことだった。
 ナギの両親が誰だったのかは分からない。
 けれど組織の中で生まれたと言うことは、やはりエージェントの誰かが生み落とした子供だったのだろう。
 そんなことより大切なのは自己の確立。存在理由。居場所。
 このままでは生きているのか死んでいるのかも分からなくて、その“分かっていない”ことにすら気付けなかったから、何か一つで良い、形のあるものが欲しかった。
 形あるもの……成績、経験、実績……名。自分だけの“コードネーム”。
 組織の中で名を与えられると言うことは、一人前として認めてもらったと言うことだ。
 男に名を与えられると聞いた時、ナギは嬉しかった。男が告げたことは……“凪”と言う名だけがナギにとっての確かな証だと言う言葉は、本当だったから。
 記憶操作と言う特例を考慮しても、実際ナギのエージェントとしての成長は早かった。
 期待をかけられていたせいもあったろう。組織で唯一育った子供、余計な知識も与えずに思いのまま作り上げることのできる素材。それがナギだった。
 組織にとって唯一の……。
 いいや、違う。
 何度もインプットされた“記憶”に、真実の記憶は曖昧になる。
 ナギ。
 エージェント達に与えられるコードネームはたったの一文字。それは常に“与えられるもの”であり、選択出来るものではなかったのだけれど、そこには願いや、怒りや、絶望や、様々なものが込められていた。
 凪。
 名を与えられた時、エージェント達はその意味を訪ねることを許される。何も聞かなかいナギに、教えてくれたのはあの人の方からだった。
 ペルソナ創始者ベルデ・シュミテン。
(凪とは嵐を沈め、静けさを呼ぶ名なのだよ)
 なぎ。
 何故そんな名が与えられたのか、ナギには未だ分からない。
 もしかしたら分からないまま終わるのかも知れない。
 それでは、あの子はどうだったのだろう。
 あの子は……ナギと共に育った筈のあの子は……どんな名を貰ったのだった?
 視界に残る長い長い黒髪。
 幼い顔立ちと、ナギのそれより幾分か濃い緑の瞳。
(誰?)
 流れる血。
 鮮血。
 赤。
 ……炎。
(あれは、誰?)
「ナギ。ナギ、あなた大丈夫?」
 肩を揺すられてはっとした。
 覚醒した途端額に浮かんでいた汗の粒が一筋流れる。
 覚醒。その言葉に目を見開く。
 今、自分は何を考えていた?
「ナギ。真っ青よ。気分でも悪いの?」
「ミストリア」
 不安げな囁き声に我に返ると、そこは教室だった。
 教壇の中央にある巨大モニターに映った人影が、白字の専門用語の字幕に合わせて朗々と講義を続けている。
 突然のノイマン氏の講義方法変更を知った生徒達は、当然ながらひどく落胆した。
 けれど高齢のノイマン氏の体調不良と、予想以上に増えた受講者の数を考慮した上での変更と説明されれば、さすがに納得せざるを得ない……モニター講義が始まってから二時間が経過したが、生徒達はいずれも真剣な面もちでモニターに映るノイマン氏を凝視している。
 ここでブーイングが起こらないのはさすがファーストグラウンド、と言うべきか……それらの事情を軽く頭を振ってから思い出すと、ナギは重い溜め息をついた。
 生徒で埋め尽くされた講義室は、室温調節が成されている筈なのにほのかに熱気を帯びている。
 頭が重いのは、もしかしたらその為なのかも知れなかった。
(ううん、違う)
 まだ心配そうにこちらを見ているミストリアに微笑を返すと、ナギはじっと辺りを見回した。
 ……ノイマン氏の姿を移したモニターが囲む講義室、この沢山のモニターが、ナギの古い記憶を呼び起こしたのだ。
(薬はきちんと飲んでいる筈なのに……参ったな。任務中にぼんやりするなんて)
 ノイマン氏の講義の次は昼休みになる。
 やがて講義が終了すると、ナギは自分を保健室に連れて行こうとするミストリアに何とか断りを入れて、講義室を出た。
 ぼんやりした頭を早くはっきりさせなければならない。
(……それにしても、さっきの記憶。何かを思い出しかけていた様な気がするんだけど)
 記憶。
 本当に今日の自分はおかしいと、ナギは思う。
 依頼を請け負っている最中に、その件とは何の関わりもない記憶を持つことなど、今まで一度もなかったことだった。
 本当はまだ実験段階にある“記憶操作”の被検者として、ナギの精神状態については誰より配慮されている。
 毎日薬を飲むのはその為でもあった。
(報告、すべきなのかも知れない。このまま記憶の混乱が認められるのなら、今回の仕事は誰か他の人間に任せた方が)
 廊下を抜けて赤煉瓦の階段を降り、そのまま雑木林に包まれた小径に出る。
(でも今からの交替では支障が出るかも知れない。ノイマンの講義は始まってしまったし)
 そう。計画通り、順調に。
 ふわり、と風が吹いて、辺りの景色とナギの黒髪をかすめて行く。
 テイルにした長い髪を揺らすのは、中央の管理システムの起こした人工の風。すっと吸い込むと無気質な機械の匂いがするのではないかと、ナギは思う。
 だが思うだけだ。実際、計算し尽くされたシステムの起こす風はこのドームの外に吹くものと何ひとつ変わらず……例え変わりあったのだとしても、外を知らないナギ達にその違いを知る術はない。
 解けた髪をなでつけて、ナギは道の端に並ぶ幾つかのベンチに視線を遣る。
 のどかな日差しの下で食事を広げている他クラスの生徒達の間を抜けると、ナギは一人ベンチで読書をする女子生徒に話し掛けた。
「隣、良いですか」
「……ええ」
 ちらり、とだけナギを見た少女は、そのまますぐ読書に没頭してしまう。
 隣にちょこんと置いてあるしおりは可愛い押し花細工ので、その少女の手づくりのものらしい。
 四人がけのベンチにしおりを挟んで隣に座ると、ナギは手にしていた参考書の中から一冊、病理学関係の本を取り出して黙読を始めた。
 やがて暖かいひだまりの中で、ナギが幾度目かにページを繰ったその時、
「よっ。こんなトコで勉強?」
 ふとナギの上に影が落ち、顔を上げると満面の笑顔が現れた。
 僅かに長い濃茶の髪を束ねた、紫の瞳の少年だ。
「カイ、さん」
 カイザス・シュナハ=ベルナ。
 咄嗟に周りを見渡したものの、エリノアの姿はない。
(一人か)
「わざわざ外に出て勉強しなくても、講義室でやれば良いのに……お昼食べないの?」
 屈託ないその態度に、ナギは参考書を閉じぬまま顔をほころばせた。
「カイさんこそ、昼食、良いんですか」
「俺? 俺ならいーの。何か食欲失せちまった。期待してた講義がああなっちゃーね」
 おどけた様に肩をすくめて落胆ぶりを表現したカイに、ナギも苦笑して頷く。
「……そうですね。まさか通信講義になるだなんて」
「まあ仕方なかったんだろうけどさ。人数的に無理あっただろうし……大体、今回の講義の為だけに転入して来た生徒、あれだけでそーとーな数になるだろ。んでもってこの学園の生徒の受講者も計算に入れると、講義室に人詰め込んでも最低九、十クラスは出来る。けどさああ、やっぱ悔しいよなあっ」
「でも、国家のVIP相手に学園側が無理を通す訳にもいかなかったでしょうし」
 ノイマンが高齢だと言うのは事実だった。
 公表されたデータが本当なら、ノイマンがウイルスのワクチンを発見したのが四十六の頃。単純に計算しても、現在では七十六にはなっている筈なのだ。
「モニターの通信講義なら、一度に何クラスも講義を進められる……」
「ってことだろな。ところでナギちゃん、その敬語何とかならない? さっきから何かむずがゆいんだけど」
 唐突に言われて、ナギはきょとんとした。
「なんか他人行儀でさ、嫌じゃない? せっかく知り合ったんだから、もーちょい気軽に話そうぜ。まずは“さん”を止めようっ」
 止めよう、と言われても困る。
 何となく隣に座る少女を横目で見れば、もうすっかりこちらを無視することにしたのか読書を続ける姿が視界に映って、そのままどう反応して良いのか分からずに黙っていると、見る間にカイの表情がしおれてしまう。
「ご免……俺ってうっとーしいかな。もしかしなくても迷惑してる?」
「え」
「ナギちゃんの反応がさみしい」
 ころころ表情が変わって、次の瞬間にはどんな顔をしているのかが想像できない。
 少し苦手な相手、かも知れない。
 そう思いながら、ナギは淡く微笑んだ。
「カイ、って言えば良いんですか?」
「そう! でもってそのですます調もやめとこうな。友達なんだしっ!」
「でも、敬語って予防線みたいなものですよね。いきなり取るのって勇気が要りません?」
 何気なくそう答えると、カイはひどく驚いた様子でこちらを眺めた。
「へええ。何か、意外。ナギちゃんて結構“入ってくる”人なんだ」
「入……なに?」
「入ってくる人。当たり障りのない言葉でその時の会話を流しちゃうタイプかと思ってたから。っと、これ悪口じゃなくてさ、集団心理ってやつ? けどナギちゃんは違うんだ」
「……そう、かな」
「惚れ直しちゃいそーだな、そう言うトコ」
 すとん、とさりげにナギの隣に腰掛けながら、カイは自分の笑ったままの顔を指差した。
「例えば俺、今笑ってるけど。笑いって案外コミュニケーションの拒否っぽくない? 会話してて一番便利で無難な表情が笑顔だから反応に困った時なんかすぐ笑ったりする、でもそれじゃいつまでも上辺しか見えないんだよねー。けど俺は、」
 満面の笑顔が、ゆっくりと穏やかな微笑に変わって。
 カイはいつの間にかひどく真剣な眼差しでナギを見つめていた。
「ナギちゃんのいろんな表情が見たいな、と思う訳だ」
 ちらりと内心の伺えない瞳でナギを見る。その紫の双眸はいつもより冷たく感じられた。
 これは……警告?
 気付けばカイの反対側に座っていた女子生徒は、読書をやめて校舎に戻ってしまっている。
 ナギは隣にあった押し花のしおりを取って参考書の間に挟むと、カイから視線を逸らして立ち上がった。
「何だか、片手間に聞いちゃいけない話みたいですね。心に切りつけられた気がする」
「……え。あ、ご免! 俺そんなキツいこと言ったっけ!?」
 ナギの震える声に、カイが慌てて立ち上がった。
「悪意があった訳じゃなくてさ、その」
「入ってくる人、なんですよね、カイさんは」
 細い声で呟くと、ナギは参考書をまとめて抱き、ベンチからそっと立ち上がった。
 見れば先程まで食事を摂っていた生徒の姿も少しずつ消えて、今ではナギとカイの姿しかない。
 早く行かないと昼食を摂り損ねることは必死だった。
「そろそろ戻った方が良いみたい。時間がなくなっちゃうから」
 早足で校舎に戻ると、ナギは薄暗い階段の前で立ち止まった。
 人工の煉瓦の階段……鼻につく様なひんやりとした空気の中、ナギはぐっと手摺りに置く指に力を込める。
(やっぱり苦手だ、ああ言う人)
 パターンの掴めない思考。何かを探られている様で落ち着かない。
 そう言えばST(感受性訓練)を受けていた時も、この手の人種に対する反応が苦手だったのだ、確か。
 心に入り込んでくる人は嫌い。心を見透かす様な目をした人も嫌い。
 ナギにだって“ナギ”の心の中の本当を見極められずにいるのに、そんな混沌を人に知られる訳にはいかないのに、なのに近づいてくる人は嫌いだ。
 俯いたまま階段を登っていたナギは、けれど視界の向こうに白いものを認めて再び足を止めた。
 白いもの……いや、足。
 階途中にある柱の陰から、まるでナギの行方を遮る様にして足が伸びている。
「何の話してたの、あんな場所で」
 ナギの、廊下に響く堅い靴音が途絶えるのと、それはほぼ同時だった。淀みのない綺麗な声が耳に届いたのは。
「エリノアさん……?」
 名乗らぬままのその声に、けれどすぐに見当をつけて呟くと、さらりと短い金の髪が現れる。
 柱から顔を覗かせたのは、やはりエリノアだった。






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